事務局長よりあいさつ
障問連事務局長の石橋宏昭です。
私は神戸市立友生養護学校の卒業生ですが、当時の在校生は脳性麻痺とポリオが五分五分でした。ポリオの卒業生は就職して働いてるのに、脳性麻痺の障害者はなんで働かれへんのや?と思い、職業訓練校に入学。ところが、そこで出会った脳性麻痺の年輩障害者が、無理して働いたために障害が重度化し、訓練校を転々としてきたと語っていました。そこまではしたくないと考え直した私は、民間企業で務めている間も残業は断り、定時で仕事を終えました。そして、神戸市の「現業」という労務職の試験を受けて神戸市に就職しました。
神戸市に同期で就職した養護学校の後輩が「障害者の生活と教育を創り出す会(創り出す会)」のメンバーとして既に活動しており、誘われた会議に出てみたら、同級生もいたこともあって入会しました。
1976年に結成された「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」には「創り出す会」が加盟しており、会議が大阪で夕方に開かれていたので、朝早くに始業して早く終業する私が出席するようになりました。この頃の「全障連関西ブロック」は「職よこせ要求者組合」をつくり、障害者の就労運動を展開していました。
1981年の国際障害者年に全障連、障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)、視覚障害者労働問題協議会(視労協)の障害者3団体が中心になり、各種の労働組合を集めて「障害者と労働者の連帯会議」をつくりました。このとき、各都道府県にも同様な会議をつくることになり、兵庫では「障害者問題を考える兵庫県連絡会議(障問連)」ができたのです。障害当事者の加盟団体は「創り出す会」と「全障連関西ブロック」、「兵庫青い芝の会」、さらに父母の会など広範に多数ありました。こうした当事者の加盟団体に、総評、自治労、兵教祖、部落解放同盟が加わり、現在ある障問連の形ができました。
ちなみに
「創り出す会」が当時やっていたのは「みんなでキャンプ」
「青い芝の会」が当時やっていたのが「ハッピーキャンプ」
この2つの団体が、障問連で接触したのを契機に、「みんなでハッピーキャンプ」が生まれました。
私自身は既にできた障問連を引き継いできたのですが、障問連の設立も、兵庫青い芝を黒子として支え、全障連を組織した大賀重太郎さんの功績の一つです。障問連は今日に至るまで、教育、労働、バリアフリー、介護保障、作業所などの問題に取り組んできました。障害者自身が健常者と共に活動するのはしんどいことではありますが、ぜひともチャレンジしてほしいと思います。人間的に幼いのはしょうがないことです。教育制度によって障害者は特別支援学校に入れられ、健常者とのかけひきを学ぶ機会がありませんから、議論しても言い返すスキルを身に着けていません。だから、黙って健常者の言うことを聞いていていいのでしょうか?そんなことはありません。教育制度を変えて、障害者が普通学校で健常者と共に学ぶようにしていきましょう。障害者が幼くて健常者に敵わないからと言って引っ込んでいては、いつまでたっても変えることができません。まずはめちゃくちゃでもいいのです。前に出て自分の意見を出していきましょう。
5月 13, 2012