インフォメーション

ごあいさつ

ごあいさつ

代表よりあいさつ

福永代表の写真。右手でピースサイン。こわい顔にならないようにつとめている。(2012年5月17日撮影)

福永 年久 (ふくなが としひさ)

1952年7月15日生まれ
蟹座
血液型 A型
徳島県出身

 

生まれて7ヶ月目に発熱、その結果、脳の神経が麻痺、脳性麻痺と分かり、4歳半まで徳島市で生活しました。
その後、神戸に引っ越し、7歳の就学時を迎え、普通学校に行ったが、校長からこんな子供が来る学校ではないと言われ、養護学校を紹介され、行ったが300人中50人しか入学することができませんと言われ養護学校にすらも入学する事が出来ませんでした。
就学憂慮免除になり、教育を受ける権利を奪われ、家で勉強することになりました。19歳の時まで勉強をしていましたが、母親に障害者グループに入れと言われ、自分の就学闘争をやることになり、夜間中学に入る戦いを2年間行い、やっ と入学することになりました。しかし、現在の教育の在り方に疑問を持ち、日本脳性マヒ者協会・青い芝の会に入りました。結局、夜間中学は3ヶ月でやめ、本格的に障害者運動に入っていきました。
1981年国際障害者年には厚生省の国際障害者年の委員になり、ガイドヘルパー制度をメイン事業に提案し、採用されました。
青い芝の全国委員を務めてきましたが、兵庫県には障害者の地域拠点がなく、親子心中、すなわち障害者殺しが頻繁に起こっていました。そこで、特に1986年には姫路市でひびき作業所を作り、地域拠点としました。
1988年には西宮で阪神障害者解放センターを作り、特に教育問題を中心に取り組んできました。
1990年には神戸の東灘区で六甲デイケアセンターを設立しました。
1992年には、障害者自立生活センター神戸Beすけっとを発足、介護派遣事業を行なっています。
1995年1月17日、阪神淡路大震災があり、西宮と神戸で被災地障害者センターを立ち上げ、障害者・老人の救援活動を行なって参りました。
避難場所の救援活動状況を調べ、老人の入浴や、障害者の入浴、壊れた家の片付け、作業所の復興を進めましたが、残念ながら阪神障害者解放センターの一人が家の下敷きになり、亡くなりました。私自身、復興活動を展開する中で全国各地で講演を行い、救援活動のお金を作るなどしましたが、残念ながら過労で倒れ、脳梗塞になり、寝たきりの生活を3年間送りました。
1999年には神戸の被災地障害者センターがNPO法人を取り、ヘルパー派遣を行なっております。2002年12月には阪神障害者解放センターもNPO法人となり、「障害者生活支援センター遊び雲」という事業所名でヘルパー派遣を行なっております。

障害者問題を考える兵庫県連絡会議は、兵庫県に住む障害者のみなさんの声を聴きたいと思います。障害者として生きていく中で様々な壁にぶつかるでしょう。一人でなんとかしようとするのもいいですが、障害者にも仲間が大勢います。ご相談くだされば仲間が励まし、知恵を出し合い、いっしょに闘います。みなさまの心の声を言葉にして聴かせてください。

 

障害者問題を考える兵庫県連絡会議 代表
阪神障害者解放センター 代表
NPO法人障害者生活支援センター遊び雲 代表
NPO法人拓人こうべ 代表
NPO法人ゆめ風基金 理事
NPO法人 共に生きるネットワーク まなびや 理事
兵庫いきいきコープ 理事

ごあいさつ

事務局長よりあいさつ

事務局長 石橋宏昭の写真

障問連事務局長の石橋宏昭です。

 

私は神戸市立友生養護学校の卒業生ですが、当時の在校生は脳性麻痺とポリオが五分五分でした。ポリオの卒業生は就職して働いてるのに、脳性麻痺の障害者はなんで働かれへんのや?と思い、職業訓練校に入学。ところが、そこで出会った脳性麻痺の年輩障害者が、無理して働いたために障害が重度化し、訓練校を転々としてきたと語っていました。そこまではしたくないと考え直した私は、民間企業で務めている間も残業は断り、定時で仕事を終えました。そして、神戸市の「現業」という労務職の試験を受けて神戸市に就職しました。

神戸市に同期で就職した養護学校の後輩が「障害者の生活と教育を創り出す会(創り出す会)」のメンバーとして既に活動しており、誘われた会議に出てみたら、同級生もいたこともあって入会しました。

1976年に結成された「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」には「創り出す会」が加盟しており、会議が大阪で夕方に開かれていたので、朝早くに始業して早く終業する私が出席するようになりました。この頃の「全障連関西ブロック」は「職よこせ要求者組合」をつくり、障害者の就労運動を展開していました。

1981年の国際障害者年に全障連、障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)、視覚障害者労働問題協議会(視労協)の障害者3団体が中心になり、各種の労働組合を集めて「障害者と労働者の連帯会議」をつくりました。このとき、各都道府県にも同様な会議をつくることになり、兵庫では「障害者問題を考える兵庫県連絡会議(障問連)」ができたのです。障害当事者の加盟団体は「創り出す会」と「全障連関西ブロック」、「兵庫青い芝の会」、さらに父母の会など広範に多数ありました。こうした当事者の加盟団体に、総評、自治労、兵教祖、部落解放同盟が加わり、現在ある障問連の形ができました。

 

ちなみに

「創り出す会」が当時やっていたのは「みんなでキャンプ」

「青い芝の会」が当時やっていたのが「ハッピーキャンプ」

この2つの団体が、障問連で接触したのを契機に、「みんなでハッピーキャンプ」が生まれました。

 

私自身は既にできた障問連を引き継いできたのですが、障問連の設立も、兵庫青い芝を黒子として支え、全障連を組織した大賀重太郎さんの功績の一つです。障問連は今日に至るまで、教育、労働、バリアフリー、介護保障、作業所などの問題に取り組んできました。障害者自身が健常者と共に活動するのはしんどいことではありますが、ぜひともチャレンジしてほしいと思います。人間的に幼いのはしょうがないことです。教育制度によって障害者は特別支援学校に入れられ、健常者とのかけひきを学ぶ機会がありませんから、議論しても言い返すスキルを身に着けていません。だから、黙って健常者の言うことを聞いていていいのでしょうか?そんなことはありません。教育制度を変えて、障害者が普通学校で健常者と共に学ぶようにしていきましょう。障害者が幼くて健常者に敵わないからと言って引っ込んでいては、いつまでたっても変えることができません。まずはめちゃくちゃでもいいのです。前に出て自分の意見を出していきましょう。