教育

国が推し進める「教育再生」と障害児教育

【教育】 国が推し進める「教育再生」と障害児教育

栗山和久(障問連事務局)

418日毎日新聞で、「府立校6割 教員が『人事委』 大阪/教育法違反の恐れ」との大きな見出しで、大阪府立高校185校のうち107校で、進路指導や生徒指導などの校内人事について、教員らの希望を聞いて調整、教員による選挙を実施していた学校もある事が大阪府議会で明らかになり、それは校長の人事権を定めた学校教育法に違反している可能性があり、文科省も「校長の権限を制約していると疑われかねず、不適切だ」としているが、大阪府教委は「最終的に校長の責任で任命していれば問題はない」としている事などが報じられていた。これらは「大阪維新の会」の議員が質問しての事である。

しかし、一体なぜこのような問題が議会で取り上げられ大きく報じられるのでしょうか。教員の希望を聞く、あるいは教員も家庭の事情や様々な都合もあり、教員が自主的に人事に関し調整する、このようなあり方は極めて民主的ではないのか。「校長権限を強化する」、そのような流れの背景には、かつての広島、東京そして大阪でも吹き荒れる教職員組合への敵視政策の一環であろう。兵庫県の場合、政治的背景としては異なっているものの決して無縁ではないだろう。しかし、実はこのような学校を取り巻く状況が障害児教育にも大きく関わっていると、私は思う。

■季刊『福祉労働』から読み解くもの

現代書館が発刊する『季刊・福祉労働』は、1978年から発刊、創刊号の特集は「義務化される養護学校とは」、以降、義務化以降の検証、国際的な障害児教育の流れ、特別支援教育、学習指導要領・・・と現在142号にまで発刊されているが、約4分の1にあたる30号で障害児教育に関し特集が組まれ、最新号も「安倍政権の『教育再生』と『共に学ぶ』の行方」が特集されている。

私が障害者と関わり始めた1980年、昨年亡くなられた澤田さんの家にこの『福祉労働』があり、読ませていただいた。『福祉労働』では必ず冒頭に写真が掲載されるが、初期に発刊されたある号では、地方のある都市で、普通学級で寝たままの状態の重度障害児が、教室の一角に畳を敷き、教員が抱きかかえながら教科書を見せ、他の障害のない生徒と一緒に学んでいる写真が掲載されていた。「歩けるようになりなさい」と訓練させられ続け、挙句の果てに文字盤でしか話せない人間は認められないと養護学校の教員から言われた澤田さんの恨みや青い芝の会の障害者の隔離教育、養護学校への怒りを聞き続けた私にとって、この写真を見て、このような実践ができるのだと改めて感じ入った事もあり、今でも鮮明に記憶している。それでは、この30年以上前に重度障害児が普通学級で学ぶ実践は、学校長が指導して実現したのかと言えば全く逆である。学校教育法/教育施行令の「別表」に定める障害児は特別支援学校(養護学校)に就学すべきと言う法制度の枠を越え、現場の教員が障害児や親の声を受け止め実現してきたのだ。

■差別された者の声を聴くことから・・・

『福祉労働』最新号では、兵庫県芦屋市で長年障害児教育に関わられ、現在「芦屋市合理的配慮協力員」(20136月~文科省の「インクルーシブ教育システム構築地域モデル~スクールクラスター事業」に基づく協力員)として、兵庫県から芦屋市に派遣という形で、芦屋市内の主に小学校を中心に巡回されている守本明範さんが、「共に生き合い、共に学び合う~芦屋のこれまでと今を見つめて」とのタイトルで投稿されている。守本さんの文章の中に、「・・・そもそも芦屋市が今回の文科省のモデル事業を受けたのは、若干であるが『インクルーシブ教育』の素地があったからだと考えている。『しょうがい』のある子が通常学級で学び、生活している姿が日常化しており、その素地を構築していった理由の大きなものに、『芦屋の解放教育』があると考えている。先輩達から『差別される痛みは差別を受けてきた人たちから学べ』と教えられ、毎日のように被差別部落の子どもたちの家庭訪問を繰り返した。この時の経験が『しょうがい児教育は、しょうがいのある人自身の声を聴く事から始まる』や、『しょうがいのある子にとって、差別はどんな形で、学校教育の場で現れるのか』を考えていくきっかけになった」とある。

■芦屋市で広がって行った共に学ぶ実践

続けて、守本さんの文章では、障害児教育とは無縁だった守本先生が、先輩教員らが障害児童をできるだけ通常学級のみんなの中で共にと奮闘する姿 ~集団登校が難しければ教員が迎えに行く、教具や教材プリントを用意する、障害児担当教師が通常クラスに入り障害児童だけでなく学習面や生活面でしんどさを抱える子に寄り添う~ の後について取組みを進められたと言う。その後転勤した学校で障害児学級担任になられ他の教員との意見の相違はありつつ、勉強面も行事も常に障害児が分けられている事、障害の無い児童から「おかしい」との声もあり、また重度障害児童の担当になり食事介助も含め守本さんが担われ通常学級に入る時間を増やしていかれ、他の親から「○○ちゃんのような重い子が、みんなの中に入っているのに、なんでうちの子は・・・」と不満を漏らすようになり学校が変わって行ったという。そんな活躍が認められ守本さんは芦屋市適正就学指導委員会の専門部員も務められ、そして次のステップとして、原学級での生活をメインにする事、可能な限り原学級で過ごす事、そうこうしているうちに障害児学級籍は取るが全時間を原学級で過ごすスタイルに変わり、それを経験した教員が他の学校に転勤しても同様の取り組みをする事で徐々に原学級保障が市内の他の小中学校にも広がって行ったという。

さらに守本さんの文章では、芦屋市で全学校に学童保育所が小学校の敷地内に設けられ、障害児童は6年まで延長、必要があれば加配の指導員も配置される、そういった事も普通学校が安心して過ごせる場として位置づいていったそうです。その他、芦屋市独自の数十年前からの本人・保護者の希望を尊重した「適正就学」の仕組み、阪神大震災で同じ学校で学んでいたからこそ近所の人たちに倒壊したマンションから助け出された事などが綴られ、最後に「今、合理的配慮について思う事」でまとめられている。このような要約・引用は失礼に当たるとは思いますが、是非知って頂きたく思い紹介させていただきました。是非『福祉労働』で全文を一読下さい。

■安倍政権の教育再生は何をめざしているのか

長い紹介になったが、芦屋市でのこのような実践は、守本さんご自身が述べられているよう、解放教育が原点にあり、さらに言うなら教組運動のバックアップも存在していた。私自身、阪神間での普通学校運動の中で、多くの先生方が共に学ぶ組合方針の下、各学校分会でも討議を重ね、具体的な障害児童の受け入れを巡っても職員会議等で議論を重ね、最終的に「自分が担任します」と他教員や校長を説得して、普通学級入学が勝ち取られてきた事を聞いてきた。

障問連の教育集会あるいは毎月開催される「親のネットワーク兵庫」例会等で、普通学校を希望しても近年ますます困難な状況にある切実な声をいつも聞いている。『福祉労働』最新号でも北海道、千葉県そして「普通学校へ全国連絡会」としての電話相談の中から就学を巡る状況が報告されているが、全国どの地域も厳しい。具体的な中身を聴くと、教育委員会や就学指導上の問題もあるが、兵庫においては親が強く希望すれば普通学校入学は実現できるが、入学後がむしろ課題になっている事が多い。校外学習・修学旅行等あるいは登下校の親の付き添いの強要、支援学級への執拗な転級の勧め等、現場教員の側に普通学級で障害児が学ぶ意味親が望む理由に理解どころか、むしろ反発すら感じる教員がいかに多いのかと感じざるを得ない。何故そうなっているのか。そこに教職員組合運動の弱体化、それは国の組合弾圧と敵視政策もあるだろうが、大きな背景として、『福祉労働』最新号のタイトルにもある「安倍政権がめざす教育再生」とつながっていると見るべきであろう。大内裕和さん(中京大学教授)が以下のように『福祉労働』で述べられている。2006年第一次安倍政権が真っ先に取り組んだ「教育基本法の改悪」。愛国心が明記され「国や郷土を愛する」態度が教育の現場で一律に強制される事や政府や行政が「政治介入」「行政介入」を可能とする教育行政システムへと転換された事、さらに第二次安倍政権の下では現在もマスコミ等でも大きく取り上げられている教育委員会制度の抜本的な改悪、教育行政における首長権限の強化が大きくクローズアップされている。大内氏の文章の要約紹介文では「安部政権の『教育再生』とは構造改革の再起動と改憲を支えるためのものとして位置付けられる。『道徳の教科化』や『日本史の必修化』、『尖閣諸島や竹島が日本の領土であることの教科書への明記』などが進められようとしているが、これらの規範意識や国家主義的イデオロギーは、構造改革の再起動と改憲にとって必要不可欠である」とされている。

冒頭に紹介した大阪での教員人事を巡る校長権限の強化は、実はこのような教育行政における首長権限の強化とつながり、さらに教育再生の名の下での教育に対する国家の介入どころか、国家・為政者の意思の下で教育は実施されるものと、とんでもないペースで改悪がまさに現在推し進められている。民主党政権誕生の大きな要因であった、貧困・格差社会という激化する社会矛盾への対策は、一方で社会保障全般の抑制を進めつつ、アベノミクスこそが矛盾を解消するものと収斂されている。国際的な緊張関係と経済的な対策のためには、「規範意識」「優秀な人材確保」が求められ、それらを形成し得るよう「教育」を「再生」する事が目的なのだろう。そのためには「普通学校」に重度障害児は居てはならないのだ、そう考えざるを得ない。かつて東京の金井康治さんの就学闘争が国会でも取り上げられた際、「教育の根幹に係る」と国会答弁されたが、現在、「インクルーシブ教育」と装いつつ、より優秀な就労可能な障害児童だけがインクルーシブ教育の対象である、それは平成26年度・兵庫県教育委員会の特別支援教育に係る主要な施策を見ても、如実に感じる。

教員人事を巡る問題は、下村文科大臣も全国調査する意向を衆院文部科学委員会で表明、さらに42223日、各紙でも報道されるに至り、兵庫県内でも神戸市・西宮市でも同様の事態が判明しており、教員の自主的な取り組みは抑制され、全国的に学校長権限の強化の方向で進められるだろう。また4/22毎日新聞の同報道の横には、全国3万校で「全国学力テスト」の実施と学校別成績の公表が解禁された事が報じられていた。一人ひとりの生徒の生活背景や日々の努力や学校での営みとは無縁な所で、学力テストの結果のみ強調され、成績公表はより学校間の競争を煽り、校長は学力向上に奔走し現場教員も追随するしかない学校へと変質していくのだろう。障害のある者もない者も共に学ぶ本来のインクルーシブ教育、それは最も民主的なあり方である。改正障害者基本法に定められる「共に学ぶ教育」、権利条約の理念、2年後施行される差別解消法における合理的配慮の提供、それらを武器に、一人ひとりの地域の学校の就学問題に丁寧に取り組みながら、現在進められる「教育再生」を巡る状況に抗していきたい。

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