優生思想

日本産科婦人科学会が 「出生前診断-母体血を用いた出生前遺伝学的検査」に関する パブリックコメントを募集中

9月から急速に報道されている「血液検査によりダウン症が判別できる」問題について、日本産科婦人科学会として何らかの指針を決定するため、同学会主催による「出生前診断 -母体血を用いた出生前遺伝学的検査を考える‐」公開シンポジウムが11/13に東京で開催された。それらも踏まえ、同学会としての指針「新しい出生前遺伝的検査指針」(案)を12/15に公表し、1月21日期限でパブリックコメントの募集も行われている。同案では、「母体に身体的リスクなく、その簡便さから容易に市場を広げる事が予想され・・・染色体異常児の出生の排除、生命の否定につながりかねない」と懸念しつつ、しかし、検査対象を出産時35歳以上の妊婦、染色体異常児の妊娠経験者らに限定し、また染色体異常例に精通した産婦人科医と小児科医が常勤する施設でありかつどちらかの医師が臨床遺伝専門医の資格を持つ事等の条件を課し、同学会が要件などを審査して決定する等の内容。「生命の否定につながる」としながらも条件付きでの容認姿勢、国としても前小宮山厚労大臣は「早く学会が指針をまとめるべき」と、学会に丸投げの姿勢であり、自公政権により加速化しかねない状況にある。「施設を条件付きで限定」と言うが、着床前診断の大谷レディスクリニックのように「妊婦やカップルのニーズに応える」と学会の指針を逸脱して実施されており、今回の学会の指針は実質的な容認でしかない。

以下、「日本ダウン症協会」理事長の玉井邦夫さんの公開シンポでの発言を紹介します。かつて青い芝の会が「我々はあってはならない存在なのか」「生命の選別は許さない」と告発し続けてきましたが、玉井さんは我が子の尊厳をかけて親として痛切に語られています。11/13シンポの事は各新聞でも大きく取り上げられていますが、慎重論が多いものの、両論併記の報道。学会自体が「実施」を既定路線として、

どう運用して行くのかが大きな課題としており、今後の動向に注目していく必要があります。

 

 

「何を問うのか ~新しい出生前検査・診断とダウン症~」

玉井邦夫日本ダウン症協会 理事長)

この報道がなされてから、2カ月以上経ちますけど、文字通り、全く休みなく取材が続いております。きょうお集まりの報道各社の方にも是非、ご理解頂きたいのですが、多くの取材の申し入れの中で、「出生前検査を実際に受けた人を紹介してください。受けてどんな気持ちだったかを話してもらいたいんです」という依頼がありました。ダウン症協会は、これを全部お断りしてきましたけど、そんなに簡単に突然やってきた方に、私がこうやって検査を受けましたと語れるような問題ではないんだという事を、改めてこれまでのシンポジストの方が紹介してくれたエピソードから、どうぞご理解頂きたいというふうに思います。

 

ダウン症の検査という触れ込みで報道が始まりましたけども、その間、1度としてダウン症が出生前診断の対象となりうるのか、重篤な疾患なのかどうかという議論にはなっていません。もちろん、重篤という言葉は、出生前診断ではなく、着床前診断に関するガイドラインに出てくる言葉だという、そういう言い方もあるかもしれません。ただ、なぜ、ダウン症がここまで、標的になるのか? それを私たちなりに、毎日考えます。今回の検査が量的な検査であるがために、構造異常であるトリソミーが最も分かりやすい、それは、よく分かります。13番、18番、21番。けれど、報道は常に21番トリソミーであるダウン症に向かいます。なぜなんだろうと考えた時に、ただ一つたどり着ける結論は、彼らが立派に生きるからです。しっかりと何十年かの人生を生きるから、だから、この子たちは、生まれてくるべきかどうかを問われるのだとしたら、一体私たちが問うているのは、どういうことなのか? ということを、もう1度、会場のみなさんに考えて頂きたいと思います。

 

そして、もう一つ現在は、技術的な問題からすれば、トリソミーが全てでしょう。しかし、もうすでに様々な先生方からのご紹介があったように、必ずや母体血中の胎児情報が、それ以外のDNA情報に広がる日が来ます。技術自体は、そうやって進んでいくものだと思います。今、なぜダウン症がターゲットになるのかを、生きるからだというふうに言葉の使い方を逆転させていただきましたけども、ここでも、もう一つ逆転をしてください。次にどんな疾患が対象になるのか。次にどういう病気が対象になるのかという議論は果てがありません。一度だけふりかえって、どんなDNAの人なら生まれてきていいのか、という問いをたてて下さい。その時に学会の理事長先生をはじめとして、誰ひとり完全に正常な遺伝子を持っている人はいないんだという、その見解と、どこに線を引くのか、というその議論がどうかみ合うのかという事を、もう一度しっかりと時間をかけていただきたいと切に願います。

もし、どこかで線を引かなければならない、そこには、切実な一人一人、個人個人の願いもあり、事情もあり、だからこそ技術が応用されなければならない社会的な意義もあるんだと。そうなるのであるとしたら、線を引く事自体は、社会が社会であるために必要だと思います。ただ、その線は、もはや合理的な知識で引かれるのではなくて、文化という知恵で引かれる部分だと思います。だとすれば、その知恵が多様な子供たちと生きる知恵の所に提示されていただきたいと、ダウン症協会は思います。

 

多くの出生前検査が先ほど紹介されたスライドにもありましたように、「安心して」という言葉と共に語られます。ダウン症候群は、知的障害の10%に過ぎません。その子たちの可能性が分かるという事が、どういう意味で出産や育児や、その後の人生の安心につながるのか、それをきちっと考えていただきたいと思います。21番トリソミーでない子は、交通事故にあわず、老化もしないというのであれば分かります。けれど、どんな人間にも、生きていく上でのリスクはありますし、どんな子供であっても、育てていくための大変さはあります。

障害の告知というのは、それを受けた親にとっては、確かに大きな衝撃です。それは、ある意味、喪失体験だと思います。生まれてくる子とこんな家族でありたかった、こんな親子でありたかった、こんな子供になってほしかった・・・そういう憧れや願いが子供に障害があると聞いた時に、一度崩れたように親は感じます。けれど、その喪失感が実は幻想だという事に気がついていくのが、子供と生きていく知恵です。お腹の中にいる子供が二十歳に成長するまで、ただの1度も親の期待を裏切らなかったという子育ては恐らくありません。けれども、通常の子育てには、1枚1枚薄皮が剥かれていくように、子供への期待が失われていくのと、補って余りあるだけの子供に対する発見の時間があります。障害の告知は、その喪失からの立ち直りを、わずか数か月間で要求する過酷な作業です。だから、質的に違うと思われるかもしれません。けれど、そこに本質的な違いはないと私たちは考えています。子育てが全て期待した通りの理想の実現にはならないということ。子供が一つずつ成長すれば、それは必ず親に新しい不安をもたらすんだという事。そして、自分一人だけの力で生きている人間は誰もいないという事。子供を育てる時に誰かの支えが必ず必要だという事。どれ一つをとっても、私たちダウン症協会は、それが子供の染色体疾患から来る特性だとは思っていません。全ての子育てと、全ての育児にある問題だと思っています。

 

障害を持つ方たちのサポートにはお金がかかると、しばしば言われます。それは、その通りだと思います。全てをハードウェアで解決しようとしたら、全てを年金や制度で解決しようとしたら、当然、障害を持つ方たちの生活の質を防ぎきるには、国家的な財政を考えた場合、非常に制度設計上の無理が出てくると思います。そこには、ハードウェアで全てを解決する発想自体の転換が必要なはずです。ソフトウェアで支える。そのために必要なのは、多分、何よりも、教育の力だと思います。この議論に、なぜ文部科学省が参加しないのか。教育を語ることでしか解決できない問題があるはずなのに、なぜその問題が、医療の現場や、当事者団体に任されるのか。その事を、このシンポジウム等を通じて、もっと広く、世間に対して発見して頂ける事を切に希望します。

 

私は、先ほど、冒頭で申し上げましたように、多くの検査を受けたことによる思いを抱えて生きようとしている方たちとお会いしました。13番、18番、何も語られていませんけども、18番トリソミーの子供を授かり、保育器から出ることのできなかった97日間、一生懸命に生きた両親とお会いした事もあります。1歩も保育器から出ずにその子は亡くなりましたけど、今でもその両親は、あの子がなぜ生まれてきたのか、何を自分達に伝えようとしてくれたのか、一生懸命見つけようとしています。

 

お願いがあります。ダウン症に関する様々な知識が、まだまだ世の中に届いていません。

どうか、ダウン症の事を説明する時に、「残念ながらお腹の赤ちゃんには・・・」という説明をしないでください。

子供を妊娠した事にまず、とにかく社会が「おめでとう」と言ってください。

その前提がない中で、「染色体疾患がある子は残念な結果でした」と伝えられるのであれば、どんなに言葉を語っても、それが本質的な意味で、個人の多様性を保障する遺伝カウンセリングになるとは、どうしても私たちには思えません。

議論は、必ず結論は出ないでしょうし、続けなければならない議論だと思っています。どうぞ、取材も続けてください。ただ、私たちは、とても当たり前に元気に生きてます。どうか、それだけは、分かっていただきたいと思います。 ありがとうございました。

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