教育

【教育】 祐也は高校3年生に ―― コロナ禍で迎える再びの春

凪 裕之

すっかり暖かくなってきましたが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか? 昨年の今頃は、まさかコロナウイルス感染症で今日のような事態になるとは誰もが予想しなかったことでしょう。世界が一変してしまいました。3月になって感染確認者が減っている状況で二度目の緊急事態宣言が解除されましたが、また急速に拡大するか不安は続きます。ワクチンなんかも騒がれていますが、接種できるか、効果がどうなのかわかりません。まだまだ安心ができません。暖かくなり気候もいい季節になってきますが、くれぐれもご注意ください。

そんな一年でしたが、権田祐也さん(以下、「祐也」)は湊川高校に通い続け、高校2年生を終えました。もう2年が経ちました。早いものです。この一年、休校になったり、学級閉鎖で学校に行けなかった時はありましたが、それ以外は元気に学校へ通い続けたそうです。私も祐也が1年生の時は自宅も学校の近くであり体育祭や文化祭に行っていましたが、それもできず残念です。祐也には学校に行っても一年前のように他の生徒とも接する機会なども制約され、仕方ないことですが物足りない一年になったことでしょう。それでも、祐也自身は学校に行きたくてしかたない、学校のない日は苦痛でしかたなく、友だちとどうしても会いたかったのです。祐也のそうした強い気持ちには、改めて本当にすごいと驚かされます(私自身、そこまで高校に行きたかったかとなると、やはりサボり癖があり恥ずかしくなりますが)。4月からどんな3年生を送るのでしょうか?友だちとの接点が色んな形で増えてほしいです。

今年1月、人工呼吸器をつけながら尼崎で地域の保育園から高校まで通い、自ら自立生活を切り開いてきた平本歩さんが亡くなりました。35歳という若さで、まだまだこれからだというのに残念でしかたがありません。医療的ケアが必要だったりどんなに重度であっても地域で当たり前に生活したいと願う多くの障害者をどれだけ勇気づけたことか、言葉では到底言い尽くせないものがあります。本号でも追悼の思いを紹介させてもらいました。祐也のような人に大きく影響を与えた人だと思います。私は歩さんとは直接には少しお目にかかるくらいでしたが、歩さんの歩んできた道を少しでも学んでいけたらと思っています。平本歩さん、ありがとうございました。

3月10日、沖縄の重度の知的障害のある仲村伊織さんが、4月から県立高校に新設される「ゆい教室」に合格しました。権田君と同じ4年前から毎年受験を続け7回目の挑戦で夢を叶えられたそうです。「ゆい教室」は特別支援学校に籍を置きながら、完全に障害のない生徒の通う県立高校に籍を置く形ではありませんが、登校時からの学級活動を分けることなく共生社会に向けたモデル的な取り組みのようです。しかし、本人や家族の合格の喜びは大きかったそうです。本当に良かったです。

一方で、阪神間では特別支援学校が新設されます。今年4月には神戸市で小学校と併設での形で特別支援学校が、2022年には西宮で新設されます。障害のない人の学校が減る中で、特別支援学校だけが増えていきます。神戸市の場合、小学校と併設で交流することでインクルーシブだと言っていますが、本当にそうなるのでしょうか?とても疑問に感じます。交流するのでなく、同じ教室で日々いいことも悪いことも揉まれることから関係が深まると思います。しかし、分けられた学校がどんどん増えていく流れになっています。そんな中でも分けられないで学校に行くことが狭められてはいけません。養護学校や特別支援学校がちゃんと整備しているのに、なぜそこではなく地域の学校に行きたいのか、そのためには何が必要かを考えていく人たちが少しでも増えてほしいです。平本さんが、沖縄の仲村伊織君が、そして祐也のような高校へ行くことを実現することが少しでも当たり前になるため、その人たちの経験してきた根を絶やしてはいけません。

 

(『海峡に吹く風のなかを』第6号より転載)

 

◆「これからも権田祐也と一緒に歩んでいく会」(代表 凪裕之)の機関誌

この会の機関誌の会報『海峡に吹く風のなかを』から上記の文章を転載させてもらった。大幅な定員割れの中、神戸市立楠高校をたった一人の明らかに障害を理由とした定員内不合格になった権田君。障問連として全力を挙げての神戸市教委への抗議、2年目の受験前には記者会見、市議会陳情、緊急集会とあらゆる取り組みを行った。楠高校への合格はできなかったが県立湊川高校に合格、しかし看護師や支援員の配置は認められたものの、特に支援員がなかなか見つからず、高校入学支援に関わった元教員の方などが日替わりで支援に入り権田君の高校生活がスタートした。

「茶髪にしたい」「まゆげをきれいに整えたい」と周りの友人の刺激を受け「自分もこうしたい」との思いがどんどん出るようになったこと、びっくりするぐらい体調を崩すことなく元気にいること、それらはみんなの中にいたい、高校に行きたい気持ちかあるからと、「一度はあきらめかけた高校ですが、やっぱり湊川高校に来てよかった」、そんな権田君のお母さんの文章も掲載されている。また権田君を高校へと送り出した淡路の地での40年にも及ぶ普通学級運動の軌跡も連載されている(K)。

 

◆神戸新聞が「定時制・湊川高校の春~まんまでえーや」を連載

4月2日~14日、県立湊川高校の教育、生徒・教員への取材を重ねた記録が8回にわたり連載された。

「1929年創立の湊川高校は、全日制の兵庫高校と校舎を共有している。長年、差別や人権問題と真正面から向き合い、これまで約5200人の卒業生を送り出した」。こう、学校の沿革を短く紹介する第1稿、「制服はない。ピアスもネイルもオッケー。携帯電話だって教室に持ち込み可能だ」から始まる。中学時代うまくいかず不登校だった生徒、「いろんな人がいて、休んでもいいっていう安心感がある。だから続いている」と語る中学時代うまくいかず不登校だった生徒は、「なぜ定時制高校に?」との記者の問いに、「やっぱり人とのつながりが欲しいからね」と答える。

第2稿は「60年以上続く あったかご飯」とのタイトル、「・・・仕事を終えて夜間高校にかけつけたものの、空腹で挫折する生徒が少なくなかった。食べる時間がなかったのだ」と、生徒会や教職員が恐らく定時制高校生徒の生活の現実に立脚しての教育条件の諸要求の取組みがあり、現在、夜間高校として県内3校だけになったが自前で給食を提供している。

第3稿では「アジア出身の生徒も支える」とのタイトル。「韓国、ベトナム、フィリピン、中国・・・教室を見渡すだけでは気づかないが、湊川にはさまざまな国の生徒が通う。外国にルーツを持つ生徒もいる。学校は教材へのルビふりや習熟度別の少人数授業など、そんな生徒たちを支える」という。

第6稿では、全国の公立高校では初めて「朝鮮語」を1973年、必修科目として導入した資料が紹介され、そこには朝鮮語導入の目的として「朝鮮語を学ぶことを通して、朝鮮民族だけでなくすべての民族に対し、水平の関係で相手を視ることができる」とされている。そして湊川高校で32年間、朝鮮語の教員を務められた方政雄さんのことが紹介されている。

第4~5稿で「チーム権田」として権田君のことが紹介され、次ページに紹介します。続けて、大阪で「準校生」として障害児生徒を1970年代から解放運動に支えられ実現した大阪府立松原高校の実践を紹介する記事を紹介します。

 

(新聞記事は割愛)

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