事務局より

【追悼】 あゆみさん、道なき道を切り開き、多くの人を励ましてくれて、ありがとう

栗山和久

1月16日尼崎市の平本歩さんが亡くなられた。主要なほぼ全ての新聞各紙が写真入りで報道。「人工呼吸器をつけての通学は全国で初めて」「インクルーシブ教育の先駆け」「25歳から1人暮らし」の言葉が紙面で紹介された。

私は歩さんのお母さんとは特にこの5~6年、障問連の教育の取り組みやインクルネット西宮で就学相談や行政交渉で何度も共にしてきたが、歩さんと関わったことはほとんどなかった。数年前、集まりの講師として歩さんに来てもらった時、福祉センターの玄関に迎えに行った際、私のことをヘルパーさんに「彼氏じゃないよ」と話された。顔の表情で一瞬に読み取る支援者にも驚いたが、その冗談の巧みさに驚いた、「歩さんってオモロイ人や」。お母さんからは「親である私を家に入れてくれない、行っても何しに来たと言われる」「私には何の相談もなく知らない間に本を出版していた」と寂しくもあるがわが子の自立ぶりを嬉しそうに語られるのを何度もお聞きした。早くに亡くなられた父・弘富美さんが歩さんに残された言葉「自立に向かって邁進せよ」をまさに体現していたのだ。

人工呼吸器をつけて退院し在宅で生活を始めたのは歩さんが全国で初めて。退院は「歩にせがまれて」始まった。4年間の「天井だけを見つめていた生活」、1歳8か月から外泊、その度に両親は動物園や水族館など遊びに野外に行かれた。病院に変える際に泣き態度で嫌だと親に訴え、「もはや病院での生活は限界にきている」と、歩さんの意志に突き動かされ退院を決められた。

しかし当時は在宅での人工呼吸器が保険適用されず機器の購入費用に500万円以上も要し、自宅マンションを売り払い工面される等、制度的保障もなく、並大抵ではない苦労の中、両親は奔走された。地域で生きるとの親子の思いに寄り添う仲間、尼崎市のケースワーカーや市職労が集まり「人口呼吸器をつけた子の在宅を支える会」が結成された。公立保育所には交渉しても入れなかったが、私立善法寺保育所に入園。

「子どもたちとはすぐに仲良しになりました。保育園に着くと『あゆみちゃーん』と寄ってきて、機器の運搬などを手伝ってくれたり、涙を拭いてくれたり、口や鼻の吸引をしてくれたり、ワゴンを押してくれたり・・・。当初は、それらを先を争ってするので、時にはけんかになったり、泣き出したりする子もいました。・・・どろんこの手で触ったりするので、機器類は時々泥で汚れている時もありました。病院のクリーンルームの生活では考えられない事態です。しかし、これが普通の子どもたちの生活。子どもたちは、良いも悪いも含めた様々な関わりの中で成長するものです」。

保育園から地域の小学校へ。恐らく相当な困難があるだろうと、尼崎市教委との交渉を開始。就学指導委員会の判断は「養護学校の訪問教育、但し本児の状況、保護者の願いを考えて、『医療行為を保護者が責任を以って行うこと』を条件として、『障害児学級』も止むを得ない」。大きな問題は原学級保障と親の付き添いの問題。現実的に付き添い無しは医療行為があり簡単でなく、それでは付き添いを親以外の者の代行を要求したが平行線。当時から大阪市教委は呼吸器をつけた子を付き添い無しでの原学級保障が認められていたが、妥協せざるを得なかった。しかし小学校からその後、稲園高校卒業までの12年間、お父さんはずっと付き添い続けられた。「心身ともに限界」。お父さんが早逝されたのは、学校、自宅とお父さんがケアに当たってきたことがあるのではないか、お母さんが、他の医療的ケアの子どもの就学をめぐる交渉で、「安全性」「保護者の協力」を気軽に語る市教委に強く迫る背景には、このお父さんの死がある。24時間子どもを見続けるのがどれだけ過酷なことなのか、命がけの親子の暮らしを見ようとせず公的責任があるべき学校教育の枠内で何ら責任を持とうとしない教育行政への憤りがある。それは現在も全ての医療的ケアが必要な子どもと家族が強いられている現実である。

保育所から小学校、中学そして高校へと、人工呼吸器をつけた子どもの地域で共に学び生きる道を歩さんは切り開いてきた。そしてお父さんの死を乗り越え自立生活をスタート。歩さん、ご両親の闘いがどれだけ全国の多くの仲間を励ましてきたことか。

昨年春に準備された「在宅生活30周年パーティー」、コロナで開催できなかった。内容はすべて歩さんが決めた。お通夜の場で、バクバクの会や支援者が歩さんの遺志を継ぎパーティーを、涙、涙の中にも笑いを起こしながら開催された。亡くなってもなお、自分の意志を貫き続けた歩さんの生き方が仲間を動かす、重い障害があっても、かけがえのない人生を楽しみ、闘い、自分の思いを主張し続ける、そんな歩さん、それを支え続けたご両親の生き方を改めて感じた。

現在兵庫県では課題はありながらも淡路市・宝塚市・西宮市・神戸市の小中学校で医療的ケアが必要な子どもへの看護師配置制度が実現している。その道を切り開いたのは歩さん。しかし尼崎市では今なお実現していない、「平本さんは親が付き添っていましたよ」と就学時にぬけぬけと語る尼崎市教委に対しお母さんの憤りは強い。

重い障害があっても1人の子どもとして普通に生きたい、友達と遊びたい、勉強したい、いつまでも親に頼りたくない、自立して生きるんだ・・・そんな当たり前の願いを命を懸けて目いっぱい全力で生き抜いた歩さん。歩さんが切り開いた道に続き、宝塚のまなちゃんが、西宮のかんなちゃん、けいちゃんが、小学校入学を、そして権田君が高校入学を、いずれも看護師配置を伴い実現したのだ。歩さん、ありがとう。

(※「」内の文章は『季刊福祉労働』に掲載された平本弘富美さんの文章から引用させていただきました)

 

【母 平本美代子さんの悼辞】      歩さんへ

せっかちなあなたは生きることにもせっかちだったんだね。そんなに急がなくてもよかったのに。

私たち家族にも、医療関係者にも、介護関係者にも、バクバク当事者や家族の方にもたくさんの大切なことを残してくれました。

あなたの生き方が多くの人を励まし、生きていく力を与えました。

一番力をもらったのは、親である私です。最も理解すべく親があなたを差別したことがあったと思うと本当に申し訳ない気持ちです。

あなたが20歳を迎えた時、父が亡くなって、ずっと泣いてばかりいた私を「お母さん、泣かないで。私がついているから大丈夫!」と声をかけてくれたあなた。私は天と地がひっくり返るような衝撃を受けました。

私があなたを守らなければならないと思っていたのに、その時点で逆転してしまいました。

それからあなたは「自立に向かって邁進せよ」の父の言葉通り、本当にまっしぐらでした。

多くのヘルパーさんと人としての対等な関係をつくりあげ、たくさんの繫がりをつくり、あなたらしい楽しい豊かな生活を築き上げました。あなたの前向きな性格が多くの人を呼び、繋いできました。

まだまだやりたいことはたくさんあったと思うととても残念です。でもあなたと出会った多くの人がしっかり受け継いでくれます。

最後のICUでの23日間、最後の親の仕事を与えてくれたあなた。さすがです。

もっとしっかりせよと教えてくれました。生きることの意味を教えてくれました。

辛かった治療に最後まで耐えたあなたは本当に立派です。

生きて、生きて、生き抜くこと。

あなたのすごい壮絶な生き様をしっかり胸に刻んで私たちは生きていきます。あなたの目力で私たちにカツを入れてください。

さよならは言いません。

いつまでもあなたとともに。

ほな!                           2021、1、19  母

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