2011年2月 教育集会 大谷恭子さん講演報告
2011年2月26日
「教育のバリアフリーを求め、兵庫県でインクルーシブ教育を推進しよう!」教育集会
大谷恭子さん講演報告
養護学校義務化から30数年、
ようやく巡ってきた「原則~学籍は地域の学校」への大転換
大谷恭子(弁護士 内閣府・障害者制度改革推進会議委員)
推進会議が始まって1年、30回の会議を重ねて障害者制度全般にわたっての制度改革の提言を2度にわたってしました。私は国の会議に参加するのは初めてでした。今までの願いを形にして結果を出したいと、かなりの時間を割いて取り組みました。愚痴めいた話になりますが、年に30回と回数が多いだけでなく、一回4時間、週一回のペース、しかも座って聞くだけでなく宿題が出される。「これについて見解を述べよ、意見をまとめよ」と、金曜に宿題が出されて土日徹夜状態で作成して月曜の会議に臨むと、何とか結果が出せるように頑張ってきました。
とん挫しかかっている制度改革
しかし、2/14に最終的に政府の見解が出されましたが、内容があまりにひどく、がっくりして、それでも「まだ内閣府と各省庁と調整中」とのことなので、ならば、もう一度頑張ってバージョンアップを図ろうと、この二週間取り組みました。2/28に第31回の会議が予定されていて、そこで政府間の調整が終わったものが出されるという約束だったので、期限が限られたら寝ないでも頑張れると、頑張りましたが、何と一週間延期されました。理由は「調整未了」、要するに「内閣府と文科省との調整が進まないので改正案は出せない」という理由で延期されました。私は、この講演を引き受けた時には、よもやこんな状況になるとは予想していなかったので、今日は神戸で明日は福井と楽しい旅を思い描いて連続講演を引き受けましたが、こんな事態になるとは全く思っていなかった。
だけど、逆に言うと一週間まだ取り組める時間ができた、皆さんと後一週間頑張れる機会が与えられたというふうに思いたいし、ギリギリまで省庁間のすり合われるチャンスが残されたので、皆さんも一緒に頑張って欲しいので、出来る限り今日の講演で情報を提供したいと思います。
権利条約の批准に向けて
今の状況を結論から述べましたが、少し遡って話しをします。障害者権利条約が国連で採択されたのが2006年12月。このような人権条約が国連で採択されてから日本政府が批准するまでには、女性差別撤廃条約とか子どもの権利条約など先例に習えば大体5年ぐらい。わが国は2006年に採択され2007年9月に早々と署名した。署名すると日本政府は国際社会に対して、この権利条約を早晩、批准しますと約束した行為。署名してからは、権利条約と国内の法律が矛盾しないように国内法を整備しなければならない期間に入りました。そもそも、権利条約が国連で採択された時に、外務省の役人は「この権利条約はわが国の大きな二つの制度で問題になる。一つは、日本の国内で障害者の権利が守られているかどうか監視・推進・救済も含めた国内組織としてモニタリングの制度を設けなければいけない。しかしわが国にはそういう制度は持っていないのでモニタリング機関を設ける事が不可欠な国内法整備だ」そしてもう一つは、「日本の制度に欠けている事、また制度はあるけれど権利条約に抵触していてる事、これが教育である」。このように外務省の当時の見解であり、それに対して文科省もインクルーシブ教育への方向転換は止むなしと、それが少なくとも2006年当時の文科省の態度であった。
そして、国内法整備の段階になりましたが、その後、モニタリングの制度も設けられず、教育について、その後どうなったかと言うと、2006年~2007年、従来の特殊教育から特別支援教育へと制度的に変更しました。権利条約の後に変えられました。この特別支援教育については率直に言って正体がつかみかねない時期もありましたが、現在ではこの特別支援教育が決してインクルーシブ教育ではなく、ただ単に個別の支援はする事は保障するけれど、決して統合するとかインクルーシブを志向するものではありません。逆に言うと2006年に「抵触する」とハッキリしていた別学体制が、個別支援の名目でますます分離を強化する事になった事は、現場から「特別支援教育がますます分離を勧めている、おかしいぞ」と、悲鳴に近いような報告がなされ明らかになってきました。
2009年国内法整備せずに批准を寸前で阻止する
そして国内法整備がまだ手つかずの時に、実は2009年3月、旧の自公政権の時に急きょ、驚くような形で「権利条約に批准」という動きがありました。国内法が未整備のまま批准してしまうとは一体どういう事だ。わが国政府が批准してしまうと、日本の障害者の人権水準が国際水準を満たしていると言う事になり、そうすると、もう充足されているのだから人権水準をアップする事が望めなくなる。この典型的なのが「子どもの権利条約」の時。1995年に子どもの権利条約は批准されているが、あの時も政府は文科省からの抵抗もあり、何ら国内法整備をしなかった。文科省の言い分は、「子どもの人権は十分に守られている。だから批准に当たって新たな制度的保障、国内法整備は一切必要ない」と押し切られた。その理由が、「憲法があるから大丈夫」。しかし憲法があっても、いじめ・自殺やこんなに子どもが悲鳴を上げているのに。しかも、その時も「障害児の権利」が明記され、差別の禁止の中に「障害」が入り、「子どもの意見表明権」が入り、そして教育においては「可能な限り地域での教育、出来る限り身近な場所での教育」が明記されていたにも関らず、一切国内法を整備しなかった。その結果、何ら事態も動かないまま、現在の障害者権利条約という、よりもっと障害者の人権水準を確保する時期に来たのだから、今度こそ国内法を整備しなければならない。にも関わらず、2009年3月に自公政権は一気に何もしないで批准するという対応に出ました。
民主党政権~推進会議発足へ
自公政権はどう乗り切ろうとしたかというと、モニタリングシステムについては、障害者基本法の中にある「中央障害者審議会」、これでいいと。何をしているのか、ほとんど実際には動いていない機関にモニタリングを任せると言う、あまりに安直な方針だった。しかし、さすがに公明党に対して障害者団体が「こんな内容で批准してはダメだ」と直訴する形で圧力をかけ、閣議決定の直前で見送られました。その時に、野党だった民主党は2009年3月に、「障害者制度改革法案」を提出した。教育もモニタリングもきちんと法整備しようと論拠を作り、批准は見送られ、ご存知のように8月に政権が代わった。そして内閣総理大臣を本部長とする「障害者制度改革本部」が立ち上げられ、その下に「障害者制度改革推進会議」ができ、推進会議は国連で権利条約が作られた時の例に習い、過半数を障害者もしくは障害者団体関係者によって占める「推進会議」ができました。ここで障害者制度全般にわたっての改革の方針を出し国内法を整備していく、という動きが2009年9月から12月にかけてあった。そしていよいよ2010年の1月から「推進会議」が動き出した。以上が2006年から現在までの動きです。
推進会議の「第一次意見書」(6/17)
そしてこの1年間、30回の会議を重ねました。まず前半の区切りとして6月17日に「第一次意見書」がまとまり政府に提出され、6月末に閣議決定されました。この「第一次意見書」は、障害者制度をどのように進めていくのかの「工程表」を入れ、かつ大きな方向性を示したものです。「教育」では、明確にインクルーシブの方向性を目指す、そのための制度設計をこれからどういう形で進めるのか。まず、大きな枠組みとして・・・
① 今年度中(2011年3月まで)に障害者基本法の改正に取り組む。2011年4月以降の国会に上程して2011年度中には障害者基本法の抜本改正をする。次に、
② 2011年度中(2012年3月まで)に障害者総合福祉法を制定する。ご存知のように自立支援法が一割負担、トイレするにも利用者負担を課す事は違法だと違憲訴訟が起き和解した事を踏まえ自立支援法を廃止して総合福祉法を作り福祉の枠組みを作る。
③ 2012年度には、障害者差別禁止法を作り、何が差別なのかを明記する。
以上の三段階論法で全体として制度改革しようという事が閣議決定されました。
それを受けて、この第一次意見書以降、推進会議で障害者基本法改正について議論してきました。総合福祉法については、今、部会で議論されている。今年の7月~8月には総合福祉法案が提出される予定です。そして差別禁止法も部会が設けられ検討に入ったばかりです。今後この3年で障害者制度改革を実現し、それを国内法整備として批准に持ち込む、これが第一次意見書の示す工程だったのです。なぜ3年なのか。権利条約の署名から大体5年なので、本当だったら2012年には批准へと国際的な圧力がかかると言う事もあります。一方で政治的に言えば、民主党政権は4年しか持たないかもしれない、何とか次回の総選挙までには制度改革をしてしまおう、そういう双方の考えで、何とか3年で制度改革を仕上げようという計画でした。そして「教育」について言えば、インクルーシブ教育の方向性をどのように基本法の中に盛り込むのかが大きな課題となりました。
基本法を「権利法」として転換しよう
昨年の7月以降、推進会議では毎週議論を重ねてやっとできたのが、12月17日にまとめた「第二次意見書」です。これが基本法の中味、このように改正すべきであると意見書を提出しました。
基本法は読んだ事ありますか? あまり馴染みはないですよね。基本法ですから、障害者関係の政策・施策の在り方を決める法律です。目的、基本理念、基本施策を明記する。私たちが推進会議で一生懸命議論した事は、基本法の目的は何なのか・・・今の現行法は「福祉の増進」。もちろん福祉の増進も大切で不可欠ですが、基本法と言うからには、また権利条約の受け皿としての国内法としてあるならば、やはり「権利法」にしよう、障害者の権利とは何かをきちんと明記した法にしようと、「福祉法~権利法への転換」を大きな柱にした。そして、基本理念として、現行法では「障害者の尊厳が守られる」としか明記されていないので、より具体性のある権利をここで明記すべきである、という事を要求しました。推進会議の問題認識として、「障害者も基本的人権の享有主体である」と、こんなことは当たり前だけど、改めて確認しなければならないほど、これまで「福祉の対象」「保護の客体」としか扱われない、それすらも危うかった現実の中、権利を行使する主体として転換すると、ここはきちんと明記して盛り込むべきであると言う事を第一にしました。
「地域生活」は権利である!
もう一つ大きな内容として、権利条約でも明記されている「地域社会で生活すること。それを権利として認める」。権利とは、一般には普通の状態であれば自覚されないけれど、その人たちに対しては、その権利が意識されない限りは実現され得ない状態になっている、そういう時には権利が発生すると言われています。例えば、環境権とか日照権とか、別にそう言わなくても環境とはあるがままのものであり、権利とわざわざ言うべきものではない。しかし大企業が勝手に工場を建て公害を垂れ流したり、例えば大きなマンションが建てられ日光が遮られたりした時に、庶民が自分の生活・環境を守りたい、これまでの当たり前に受けてきた川の水や太陽の光、それが守られなくなる。どうしたらいいのか。その時に主張する根拠として環境権が初めて意識される。それと同じように、地域社会で生活する権利は、障害のない人にとってみたら何も権利化されなくても、生まれて育ってそこで生きていく、そんな事は誰かれに指図されることもなく自由にできる、それは権利ではなく自由にできること。ところが、障害者にとってはその状況が阻害される。特定の生活様式を強制され、地域ではない施設で生活しろ、もしくは地域社会で生活するには何らかの人権に対するサポートが必要にも関わらず、それがない。地域生活をするという事は、障害者にとっては、何もしなければ保障されない事になる。とするならば、それを実現するためには、権利化して具体的に障害者も地域で生まれ育ち生きていく、その事を権利として要求しなければ実現しえない、という事で権利条約でも、「特定の生活様式を強制されない」権利も含めて明記されている。だから基本法改正に当たって、地域生活する事をきちんと権利として入れてくれと、第二次意見書でも要求しました。それから自己決定する権利、情報アクセス・言語の保障。これらを我々の共通認識として上げました。
インクルーシブ教育システムの構築
そして次に教育。推進会議の問題認識としては「インクルーシブ教育制度の構築と推進と状況の共有」・「障害のある子どもは、他の子どもと等しく教育を受ける権利を有し、その権利を実現するためにインクルーシブ教育制度を構築する」。ここで注目して欲しい事は、単に「目指す」のでなく「制度・システム」を構築するとされているのです。二つ目に、「障害の状態に応じて教育を受けられるようにする」という現行の規定、これは「状態」という事で、障害の種類や程度に応じて就学先が決定される就学基準、それを許容される恐れがあるので、それを改める事。三つ目として「障害のある子どもとない子どもが同じ場で共に学ぶ事ができる事を原則とするとともに本人・保護者が望む場合に加えて、最も適切な言語やコミュニケーションを習得するために特別支援・学級を選択できるようにする事」。四つ目が「本人・保護者の意に反して地域社会での学びの機会を奪われる事のないようにする事」。そして、基本法改正に当たって政府に求める事項として、「すべてインクルーシブ教育制度を作ること、障害のあるなしに関わらず分け隔てなく地域の学校で共に学ぶ事、これを原則とする」。この事については推進会議では反対意見がなく全員が一致した意見でした。それを踏まえて政府はどういう風に現行法に落とし込むのか、障害者基本法をどう改正するのか、という事がその後省庁間ですり合わせして原案として推進会議に提案される事になっています。しかし、提案は延期延期で延び延びになっています。1月下旬会議も2/7会議も延期で、そしてこれ以上待てないと言う事で2/14に出されたのが、「障害者基本法改正案」です。
制度改革を実現させるためのタイムリミット
推進会議としても期日のある事を前提として話を進めています。制度改革推進会議で議論して法案としてまとめられたものは、3月の中旬ぐらいに閣議決定し予算審議の終わった後、可能な限り早い時期、4月下旬もしくは連休明け早々に提出して審議にかける。何とかこの通常国会で成立を目指す、これが内閣府のタイムスケジュールです。ご存知のように国会情勢がどんどん悪くなっています。政局が不安定になればなるほど早く閣議決定し早く制度改革の第一歩を踏まない限り、今までの事は本当に夢の夢になってしまうので、ここで政府調整にあまり時間をかけていると閣議決定が遅くなり、国会上程をし損ない、国会会期末に近づくほど「調整案件」になり野党との取引の材料にされてしまう。昨年秋も自立支援法の改正つなぎ法案が可決されましたが、あれも国会の中での取引にされてしまった。障害者や社会的弱者に関わる事について国会の取り引きにする事はもってのほかですが、残念ながら、そんな事がまかり通る社会。ならば、あんまりモタモタすることはできない。
一方、政府は時間切れを狙っている。「調整中、調整中」ということで何にもしない、何にもしなければ時間切れで、現行法のまま、あるいはほんの少し微調整して生き延びるかもしれないと思っているかのごとく、調整に非常に手間取っている。すでに一か月遅れている。「これが最終期限」と言われていた2/28も延期されました。これ以上後にすると3月中旬での閣議決定も取れなくなる。だから待ったなしの時期に来ています。
2/14基本法改正案の中味
中味の話しの前にタイムスケジュールの話になりましたが、次に「障害者基本法改正案」の中味について説明します。内閣府は本当にそれなりに頑張ってくれたと思います。法の目的には「全ての国民が障害の有無に関わらず等しく基本的人権を享有する個人として尊重されるとの理念に則り、全ての国民が障害の有無により分け隔てられることなく相互に人格と個性を尊重し合いながら、共生する事ができる社会を実現するため」。これを目的の中に入れ込みました。これは内閣府としても省庁間のすり合わせの中で頑張って獲得した文言です。そして「地域生活の権利」、この事を何とか基本法に盛り込めと我々は要求してきたが、これが、改正案の中で・・・「地域社会における共生等」とし「①共生社会の実現は、すべての障害者が障害者でないものと等しく基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳に相応しい生活が保障される権利を有する事を前提としつつ、次に掲げる事項を旨として、計画的に図られなければならない。」→権利という表現は避けられ、「旨」とされ、しかも「計画的に・・」とされる限界はあります。次に掲げる事項として、「①全て障害者は社会を構成する一員として、社会経済文化その他あらゆる社会の分野の活動に参加する機会を確保されること」、これは従来の法文に少し付けくわえたもの。次に「②全て障害者は可能な限り、どこで誰と生活するのかの選択の機会を確保される。地域社会において他の人々と共生することができる」。皆さん、お気づきかと思いますが、我々の対応する意見は、「地域社会で生活する事を権利として認めよ」というものが、「旨」とされ「計画的に」とされ、さらに「可能な限り・・」という三つの文言が入った事によって、要するに三段階にわたり権利性が薄められてしまった。それでも、こういう文言として各省庁とのすり合わせが終わったものとして出てきました。
推進会議を全く無視する文科省
では、教育がどうなったのか。2/14の前日の夜中の3時にこの文案が送られてきました。こんな時間に働いている公務員がいると思うと、どうかと思いますが、読み比べてみて、私は目を疑うと言うか正直、理解不能、どういうことか!!。改正案と現行法を読み比べてみると、右と左を写し間違えたのか、目の錯覚なのかと思うほど、どう見比べてみても同じもの。違うのは、第二項に「人材の確保及び資質の向上」という文言が入っただけ。教育以外は、限界があるにしろそれなりに変わっている。しかし教育は全く変わっていない、全く同じ。何度も何度も読み返しても、どう読んでも変わっていない。要するに、教育に関しては、「調整不能」ということで、現行法のままなのかせ文科省の回答であって、それ以外には訂正する必要なし、というのが2/14段階の回答。もちろん2/14の推進会議では、これはひどい。色んな面でも不満は出ましたが、教育は、少なくとも何も変えないと言う事はないだろう、閣議決定で第一次意見書で「インクルーシブ教育の推進」が確認され、そのために基本法に盛り込むべき文案を検討せよということになり、これだけ推進会議で議論した上で、こんな提案はあり得ないということが各委員から意見されました。その時に内閣府から答弁されたのが、「とにかく調整中ですから、もう少し待って下さい。この2週間の間で必ず何らかの文言を追加します。このままではありえないと言う事は我々も認識している」事は約束されました。
市町村会が反対?! 「お金がかかる」
それから2週間、ただ待っているだけではダメだと、ロビー活動をしかけながら、何故ダメなのか、誰が歯止めをかけているのか、どうやったら事態が動くのかという事を追求しました。けれど本当に固い。政府の会議から提案された事に対して「しない」という訳にはいかないから、一体何が問題なのかと聞いたら、二点あります。一つは、特別支援学校校長会が納得しない。しかし特別支援学校は否定していないし選択できる、けれど原則をどちらにするのかをはっきりしろということ。二つ目が、市町村会が反対していると言われ始めました。要するに、原則として地域の学校に就学する、そういうようになると地域の学校に障害児が入ってくる、そうするとお金がかかる、お金がかかるのに何の保障もしないで市町村に押し付ける、お金をつけろ、お金がないなら障害児を寄こすな、そんなことが露骨に言われるようになりました。都道府県と市町の所管の問題は、教育だけでなく児童相談所や子育てや色んな所で「可能な限り地域に密着したところで・・」という事が問題になっています。それでもそれらの分野では「止む無し」と厚生労働省もその方向で舵を切っている。ところが、教育だけは今でもはっきりと市町村が受け入れない。しかし、障害者基本法は、明日からすべて実施するのでなく、基本法の性格上、国の政策の在り方を決める法律で、これから具体的にどうしていくのかは、総合福祉法とか細かい法律はこれから決められていく。基本法では、どの方向を目指すのか、それを議論しているのに決めさせない。言えば基本法を決めさせないために粘っているのかと思う。基本法で方向性を決め、その実現に向け例えば今都道府県に出ている予算を今後市町村に回していく、そのやり方も含めて検討されればいい。しかし、そういうこともしないで反対する。ただただやりたくないとしか思えません。こんな事態になっています。
金井闘争・「建造物侵入」事件との出会い
私は何とかして、あと来週の推進会議で、基本的な方向性として、「インクルーシブな教育」、「地域で学べる事」、「可能な限り」でもいいから、これが原則なんだと、これは譲れない一線として頑張ってもらいたい。私は学籍が地域の小中学校にあるという事は、その地域の子どもであるという証になると思っています。地域にいるパスポートでありアイデンティティーだと本気で思っている。なぜ、そうかと言うと、実は私は障害者問題をやりたくて弁護士になったわけではありませんけれど、私は元々は刑事弁護士です。今から32年前、私が弁護士になりたての1978年、成田三里塚空港の管制塔が占拠され赤旗が翻った年で1000人の逮捕者が千葉地裁にあふれ東京地裁に移送されたという珍しい年。毎日毎日刑事弁護しかしなかった。1979年に養護学校義務化の年に、東京の救援連絡センターから連絡が入れば、接見弁護士として動くという事で、ある時、建造物侵入事件の連絡があったから、行ってくれと言われた。そしたら、110㎝の校門を障害児と一緒に乗り越えただけ。正直、校門を乗り越えただけ?! 大丈夫、絶対不起訴になると思っていた。逮捕されたのが区役所の公務員だった。養護学校から地域の学校に転校を求めている金井康次君の自主登校をずっと支援し、校門の前で勉強を教えたりしていた。だけれどトイレだけは貸して欲しい、トイレだけは学校の中に入っていいという約束だった。しかし、ある時から校長が、「トイレを貸すから自主登校してくる」という事で、絶対トイレも使わせないとなった。その日も「トイレを貸して下さい」といつもと同じように、車椅子のバギーごと康次君を抱えて校門を乗り越えた。そしたら校長先生が飛び出して来て、「トイレは貸せない」「うちの子どもではない」「出ていけ」という押し問答になり、建造物侵入でパトカーが呼ばれ、その場で青年が逮捕され、康次君はおもらしをしてしまった。
苦節30年を経ての転換のチャンス
こんなことは絶対にあり得ないと私は思った。転校を要求している康次君の弟はその地域の学校の生徒、いわば康次君は兄であり父兄という事もあり、学籍がまだ養護学校にあるからと言って、門を乗り越えただけで建造物侵入になるはずはない。地域の子どもなんですよ。康次君がこの学校に行きたいと言い、トイレに行きたいと言ったのだから、主犯は康次君です。その時9歳だったから逮捕されなかったけれども、康次君がその場でおもらししてしまったのだから、トイレに行きたかったのは明らか。こんな事が有罪になるはずはないと私は本気で思いました。しかし残念ながら23日拘留された後、起訴されてしまった。康次君の学籍が花畑東小学校にあれば、建造物侵入は不成立で無罪です。私は、初めてなぜ彼の転校が受け入れられないのか、なぜ彼の学籍が移動できないのか、1年以上も転校要求にも関らず学籍を移動しなかった、転校不許可処分は違法であると争うしかなかった。転校を認めない処分の違法性について憲法裁判として刑事事件で争う事になった。それは、刑事弁護士として青年を無罪にするためにはそれしかなかった。1審、2審から最高裁まで争いましたが、残念ながら彼の有罪は確定してしまった。けれど高裁で良い裁判官に当たり色んな証人、大阪の豊中の実践報告を紹介し、実際受け入れている学校もあるにも関らず、こんなに本人・保護者が要求しているのに、刑事事件になるほど拒否する理由はない。また東京の町田市で当時、積極的に障害児を受け入れていた校長先生を証人にお願いし、可能な限り早い時期から共に生活する中でしか障害者の理解は得られないと言う事を本当によく証言して頂きました。そして東京高裁では、その事を理解してくれて1981年に障害のある子どもの教育の原則は統合教育であるとハッキリ言い切りました。それは国が障害者の雇用率を何とか達成させようと努力しているけれど、まだ未達成、それは障害者理解かぜ進んでいない表れであり、可能な限り小さい時から共に生活をする中で理解していく事が雇用率を達成するためにも必要なんだと、そんなことまで判決に書いてくれました。但し、総論賛成、各論反対というものですが、「日本全国の小中学校に障害児を受け入れる事を原則とするためには、未だ条件が整っていない。よって障害を理由に地域の学校に転校を認めなかった学校指定処分は違法とまでは言えない」、よって青年は有罪になりました。そして残念ながら彼は公務員としての資格を失いました。私は弁護士に成り立てのこの頃に、公休を取って障害者のボランティアをしながら有罪になり職を失わせてしまった事が、とても悔しかった。こんな事はあり得ないとずっと思い続けてきた。それから苦節30年、やっと巡ってきた転換のチャンス。やっと原則は地域の学校に学籍があるという転換にあと一歩、という所まで来たのかなあと思いました。それはその後も障害者が地域社会で生活し続ける事を当たり前にするためにも絶対に必要な最低限の事です。やっとここまで来ましたけれども、最後の最後でとん挫しかかっているのが現在の状態です。しかし私はまだ諦めません。あと一週間ある。どうやったら障害者基本法の中に、原則、学籍は地域の学校にあると言う事を明示させることができるのか、最後のギリギリのところまで来ています。是非、皆さんも、あと一週間の踏ん張りにご協力して頂きたいと思います。(終)
5月 14, 2011