優生思想

【相模原事件の判決を受けて】 この事件は決して終わりではない! 内なる優生思想を問い続ける

野橋順子(障問連事務局次長)

 

3月16日、相模原事件の裁判の判決が下った。主文「被告人を死刑に処す」。その判決を受けて私の思いは非常に複雑だった。19名もの障害者を殺しておいて、無罪になる事は絶対に許されなかったが、死刑となるとそれで終わりのような気がし、複雑な気持ちだった。私の思いは、死刑ではなく無期懲役にし、植松被告にどれぐらいひどいことをしてしまったのかということをもっと考えて欲しかった。この10数回あった裁判記録を見ていると、植松被告の反省は微塵も感じられなかった。反省どころか「殺してあげた」という考え方で、「社会のためにしてあげて何が悪い」という彼の考え方は全く変わっていなかった。そのことがすごく残念でもどかしい。私は、表面的に謝るのではなく、植松被告に心の底から自分のしたことを悔いて、謝罪をして欲しかった。なのに死刑で終わると、もうその事は叶わない。

 

■なぜ事件が起きたのか~障害者を見ない競争社会

そもそもなぜこんな事件が起きてしまったのか。私はずっとそのことを考えている。10数回の裁判記録は、ニュースでもあまり取り上げられずインターネットで情報を見るしできなかった。19人もの人を殺しておいて、こんな大事件なのに裁判の様子とかを十分に取り上げない社会に対しても腹立たしさを感じる。まるで障害者のことを避けているようだ。いや実際そうなのであろう。この社会は障害者を「見ない」ようにしていると思っている。なぜなら障害者のことを考えると、どうしても自分の内にある優生思想に向き合うことになり、しんどくなり避けているのであろうと思ってしまう。

この世の中は優生思想の考え方の塊だ。CMを見れば美容整形の事ばかり、ドラマを見ればきれいな女優や男優が出ていて美しいものが多い。きれいなこと、美しいことが良いとされるこの社会。勉強ができて賢いことや体を動かして何か役に立つことが良いとされるこの社会。その中で障害者がどんどん肩身の狭い思いをしていること。どれだけの人がそのことをわかっているのだろうか。

植松被告は元交際相手に「今から障害者を殺そうと思う。大事件になって俺は捕まると思うから、テレビに出ると思う。きれいにテレビに写りたいから美容整形に行く」と言っていたらしい。植松被告もまたこの社会の考え方に汚染されていた1人だったのかもしれない。私が尊敬する障害者の牧口一ニさんが「みんな違ってみんないい。違うことバンザイ」と言っていた。なぜそういう風に考えられなかったのだろう。この社会は生まれてきてから死ぬまで競争社会。小さい頃から点数をとることがよしとされ、大人になると社会貢献できることがよしとされる。違うことに目を向ける余裕がない。植松被告もそうであったと思う。

また植松被告は施設に3年働いていたが、入所している障害者のことを「あいつらの目は死んでいる、光がない、生きていても死んでいても一緒」、「施設の職員は介護に疲れている。殺してあげたほうがみんな楽になる」と言っていたらしい。私も幼少期に施設に入っていたことがある。施設の生活は朝から晩まで何もかも施設側で決められていて自由がなかった。会いたい人にも会えず、外にも出られず、好きなものも食べれず、介護もろくに受けられず本当に地獄のような日々だった。毎日泣いていた。希望を持とうとしても、考えれば考えるほど叶わないことが分かり、だんだんそれがあきらめに変わる。本当に辛い日々だった。そんな中で目に光なんて生まれるわけがない。植松被告も施設職員ではなくて、普通に地域で暮らす障害者の介護者だったら考え方が変わっていたかもしれないと思うと切ない。

 

■この事件をこれで終わりにして欲しくない!

私は施設の介護、親の介護から離れ地域で介護者をつけて一人暮らしをしてから、本当に生き生きと生活できるようになった。それまでは施設職員や親が全部私のことを決めて、ロボットみたいな生活だった。自分の意思というものが持てなかった。地域で暮らして生きているありがたさを感じる。またそれを支えてくれているヘルパーに非常に感謝している。私たち障害者が地域で暮らそうと思うとヘルパーがいないと暮らせない。でも圧倒的に今、人手不足である。人材募集をしても、福祉分野でも高齢者や児童には行くけども障害者に来ない傾向がある。これは生まれてきてから障害者に接する機会がなくて、関わるのを怖がっている傾向があると思う。子供の時から学校教育で障害者と健常者は分けられる。この分離教育こそ障害者と健常者の間に溝を作り、関わったことがないから障害者を差別的な目で見てしまったり自分と関係がないことと思ってしまったりしてしまうのだと思う。だからこそ共生教育は大事なのだ。植松被告は多分施設でしか障害者と出会ったことがなかったのであろう。その中で殺した19人も重度障害者(意思疎通ができない)を選別して殺した。最たる優生思想の考えだ。私は怒りを通り越して悲しい。いつも虐待事件や監禁事件も標的にされるのは重度の知的障害者だ。障害者の中でも優劣をつけられてしまっている。

植松被告が起こした相模原事件は許されるものではない。しかしその背景には様々な問題があることを私たちは忘れてはいけない。この事件をこれで終わりにして欲しくない。この事件を通してみんなに自分の中にある内なる優生思想に関して考えて欲しい。二度とこのような事件を起こさないために。

 

 

毎日新聞社説(3月17日)   「相模原殺傷で死刑判決」 事件の意味を考え続けたい

 

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人が殺害され、26人が負傷した事件で、横浜地裁が元施設職員の植松聖被告に死刑求刑を言い渡した。被告はこれまで控訴しない意向を示している。

判決まで17回開かれた公判で、被告は「意思疎通の取れない人は社会の迷惑」と繰り返した。

謝罪はしても、重度障害者を差別する誤った考え方は撤回しなかった。被害者家族は、やりきれない思いを募らせたのではないか。

周囲の証言などから、施設で働いている中で差別意識を強めていったことが明らかになった。被告は、衆議院議長公邸に事件を予告するような手紙を出して措置入院となった際、殺害を決めたと述べた。

しかし、これほどの凶行に至り、人の命に格差があると言い続ける原因や背景は何だったのか、裁判で解明されたとは言い難い。

被告は施設での勤務について、他の職員の命令口調や介護の様子を見て「(利用者を)人間として扱えなくなってしまうのかなと思った」と語った。自身がコンプレックスを抱えていることも認めた。

ただ、勤務の実態や障害者との関わり、被告の生い立ちが事件に影響を及ぼしたのかどうかに関して、踏み込んだ審理は行われなかった。

市民が参加する裁判員裁判で期間の制約があり、争点は責任能力への大麻の影響に絞られた。

社会に大きな衝撃を与えた事件である。もっと時間をかけて、丁寧な審理をすべきだった。

厚生労働省が事件後に行った検証の対象は、措置入院のあり方にとどまった。障害者施策の問題点を洗い出すまでには至っていない。

事件を聞き、我が事として恐怖を感じた障害者や家族は少なくない。より弱い立場の人に向けられる差別的な視線を、肌で感じているからではないか。

裁判では、何の非もないのに名前を明らかにすることを避ける被害者や家族がほとんどだった。その事実自体が偏見の根深さを示している。

この事件を特異な人間の凶行と片付けてはならない。被告と接見を続けた専門家がおり、その見方も参考になる。事件が起きた意味を社会で考え続けていく必要がある。

 

 

■神奈川)「生きることの価値」問え やまゆり事件判決

朝日新聞デジタル 2020年3月23日 10時00分

https://www.asahi.com/articles/ASN3Q74FSN3QULOB008.html

 

植松聖(さとし)被告(30)は「津久井やまゆり園」で働くうちに「他人の金や時間を奪う重度障害者はいない方がいい」と考え、次第に「殺す」と決意を固めた。立命館大学大学院の立岩真也教授(59)は、このような被告の姿は「特異ではあるが、私たちとつながっている」と見る。

45人もの人を殺傷した事件はほとんどない。また、「いない方がいいから殺す」という被告の考え方には飛躍がある。だが、「何かができないとダメだ」「生産できない人間を生かしておくと社会がもたない」という考え方は社会に広く、深く根づいていて、その意味で被告と社会は明らかに連続していると捉えられる。

確かに食べ物や日用品など、生きていくためには誰かが生産をしないといけないし、できることはいいことだ。だが、それはできない人が生きてはいけないことの根拠にはならず、そのような根拠もない。

事件の根底にあるこの間違った考え方は、生きるに際して役に立つものを提供できるという「価値」と、そうして生きる本人にとっての良さという「価値」とを、混同することから生まれる。

例えば、勉強や体操、芸術ができることは、気持ちが良い、美しいといったプラスの価値につながる。だが、それはそもそも人間が生きていることを前提とした、良く生きるための手段としての価値と言える。

一方、「生きることの価値」というのは、ご飯を食べておいしい、あたたかくて気持ちが良いといった、「一人ひとりが世界で生きていくことの中から受け取っている良さ」を指す。それは生産ができるかどうかに関係なく、ほとんどどの人にもあるものだ。

人に世話されて生きる人は、他の人より良い部分や好かれる部分がないと生きていてはいけないのか。生きることの価値を勝手に減らしたり、奪ったりしてはいけない。その人にしかないその人の良さが無くなってしまう。だから、殺してはいけない。

だが「生きることの価値」はしばしば見過ごされる。今後良いことなんかない、大変な時代になっていくんだという社会に漂う暗い見立てが目をくらませる。その見立てがそもそも間違っている。

例えば人手不足が言われる。親1人子1人で子育てをする家庭、子が1人で親の介護をしている家庭は、多くが追い詰められている。ケアを手伝う人がいればいいのだが、担う人手が足りない。

「少子高齢化のため」と説明されるが、それはまったく間違っている。そこは、被告も多くの人もまったく間違っている。働ける人や働きたい人はたくさんいて、給与といった労働条件や労働環境が良くなれば、人手が足りないと言われる部分も十分にまかなえる。

そうした社会の設計がうまくいっていない部分を直す前に、誰もが暗い見立ての下で我慢比べを続けている。被告はまさにこの社会の見立てを真に受け、事件を起こした。他にも信じている連中はたくさんいるだろう。そこから直さないと本当はダメなんです。(聞き手・山下寛久)

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