教育

【教育】 川崎市で医療的ケア児を就学拒否 / 兵庫県の状況と課題

栗山和久

 

◆川崎市で障害を理由に就学拒否 6歳児童と保護者が提訴

神奈川県川崎市で、医療的ケアが必要な児童が地元の小学校に就学を希望し、川崎市教委、神奈川県教委と複数回の話し合いを行ったが、川崎市教委は「特別支援学校の方が専門家が多い」などを理由として、本人や保護者の同意もないまま、3月末に特別支援学校への就学を強制的に決定しました。

「障害児を普通学校へ全国連絡会」機関誌365号によると、「・・・幼稚園ではみんなと一緒に過ごしてきた。運動会も学芸会もみんなと一緒に過ごしてきた。だから保護者は、まさか自分たちの希望がかなえられないはずはないと思っていた」、そして、「確かに、保護者の希望は最大限尊重されるはずだった。2013年学校教育法施行令改正にはいろいろ限界はあるものの、保護者の意向は最大限尊重すると、通知で周知されているはずだから。そして保護者との合意形成が大切な事も強調されている」。

神奈川県教委も「保護者との合意形成の努力をするべし」と一旦、市教委に差し戻したが、県教委の「主治医の見解を聞くべし」との指示もされたが、市教委は「児童にとっての適切な教育を判断した」と硬直した見解を述べるだけで何ら協議する姿勢はなく、最終的に、「市教委は主治医の見解も聞かずに、時間切れかのごとく3月30日に特別支援学校への就学を指定した」。裁判の弁護士を担当される大谷恭子さんは、同機関誌の最後に「成長待ったなしの○○君のためには、裁判も含め、それぞれの立場と持てる力で、可能な限り早期に小学校への就学を実現させたい。全国の皆さん応援してください」と呼びかけられています。

 

◆兵庫県では・・・宝塚市教育委員の差別発言

川崎市の児童と同じ障害で人工呼吸器を使用する医療的ケアが必要なK君が、今春、西宮市で看護師も配置され地域の小学校に入学しました。3年前、人工呼吸器を使用するMちゃんが宝塚市で初めて地域の学校に入学しました。特に看護師配置について障問連として市教委との話し合いに立ち会い支援しました。そんな宝塚の取り組みを知り、西宮市で医療的ケアが必要なAちゃんが地域の学校へ看護師配置も受け入学を果たし、「インクルネット西宮」が設立され、その実績を踏まえ、西宮市で今春、K君の入学も勝ち取られたのです。しかし、兵庫県下の中核市である尼崎市と姫路市では地域の学校への看護師配置は認められていません。上記、川崎市教委の頑なな姿勢は決して遠い問題ではありません。「安全性」を盾に、旧来の分離教育、就学指導へと回帰しかねない状況は常に存在しています。

まさにそんな状況が、宝塚市で現在起こっているのです。

前述した人工呼吸器を利用するMちゃん、4年生になりました。体調が悪くなり入院する事もありながらも、地域の学校で共に学び続けています。しかし、Mちゃんの通う小学校のオープンスクールに宝塚市教育委員が来て、Mちゃんが学ぶ教室を訪れ、「養護学校の方が良いのではないか」「本人が望んだとしても周りが大変だ」と「本人保護者の希望を尊重する」との就学の仕組みを無視し、差別解消法の合理的配慮を否定し、そして「市長には何度も話しているのに」と教育委員という自らの立場を利用して差別的な考えを市長に願い出る、このような事を本人や保護者を前にして言い放ったのです。6月末から宝塚市教育長、市教委事務局に対して話し合いを継続していますが、その過程でも同委員が宝塚市教育総合会議の場でも同様の発言をしている事が明らかになりました。詳しくは次号で報告します。

◆障害を理由にした定員内不合格、

神戸市立楠高校長の差別的な発言に対する抗議の取り組み

 

私たちの呼びかけに応答いただき、抗議文を寄せていただき、ありがとうございます。下記に紹介させていただきます。

6月19日に神戸市教委ならびに神戸市立楠高校長に「抗議並びに要望書」を提出しました。それを踏まえ7月4日、神戸市教委との話し合いに向けての折衝を行いました。「合否に係る内容は一切言えません」と繰り返す市教委に対して、二次募集の発表後に校長が権田君親子に対して言い放った発言について、まず事実確認を求める事、何より校長が同席することを強く求めました。また、まだ要望書では明らかにしていませんが、校長は受験前に淡路に行き権田さん親子と会って話しています。その内容は、「看護師配置は困難」、「なぜ楠高校を受検したいのか」「他の学校、特別支援学校は見学しないのか」と、暗に断念させるような発言を行っていたのです。7月4日の折衝では、受験生に事前に会うことは公平性の観点から非常に問題があるのではないかと強く指摘しました。そのような追求もあり、最終的に市教委は、校長も同席する方向での検討を約束しました。

しかし、返答の約束期限である7月19~20日の電話での折衝では、校長の同席はできないと頑なな姿勢。校長の同席はありませんが、月末に交渉を予定しています。障問連の加盟団体である「共に生きる会」として校長に抗議文が提出されました。連動して今後とも取り組んでいきたいと思います。

以下、寄せられた抗議文を紹介します。

 

■定員内不合格を許さない。

高田耕志(NPO法人らいふ・すけっと 理事長)

 

私は加古川で子どもの頃、養護学校に通っていました。当時、その養護学校に高等部はありませんでした。ほとんどの同級生が知的障害を持ち、通常の学習はしていませんでした。ゆいいつ一人だけ親友がおり、学習の面ではよきライバルでした。中学部卒業にあたって僕は当然のごとく播磨養護学校の高等部へ進路指導されました。しかし試験当日、ライバルである彼は会場には来ず、地域で2番目の進学校を受験し合格していました。卒業後のために彼とも話すことも出来ませんでした。

播磨養護学校の試験で、同級生の知的障害の人の中には受験番号や自分の名前も記入するところが分からず白紙で出したと言う人達もいました。その人達も4月には合格となったようで在籍していました。この事から教師達に不信感を持ち始めていました。

普通進学校へ行った彼と私は、受験のためといって競わされ、試験のたびに追いつ追われつの成績が廊下に貼り出されて競争心をあおられてきました。

結果的に私は親友を進学校へ進める為の道具に使われたように思いました。その結果唯いつの親友をなくし教師への不信感を持ってしまいました。

進学先では全寮制のため自分のことは自分でするという時代だったため僕の生活は大変厳しいものがありました。友達からはいじめられたこともありました。

そのころから「なんでこんな障害者ばかりの学校にいかなあかんのや」という疑問がわいてきました。普通学校ならこの先大学進学・専門学校・就職と進路は開けてきますが、養護学校を卒業したところで僕のような重度な障害者は施設か在宅かとういう道に変わりはありません。そんな思いを持ち始めた頃、障害当事者の運動に出会いました。そこで重度の障害者でもいろんな生き方が有ることを学び、二十歳の頃に親元を離れて一人暮らしを始めました。

それからが僕の本当の勉強の始まりでした。ボランテイアの人達との接し方やしてほしいことを伝えてゆくことを学びました。それと同時に自分でメニューを考え買い物や作り方なども学んでいきました。もし普通高校に進学していれば人との接し方やしてほしいことの伝え方は学んでいけただろうと思います。今も若い頃関わってくれていた人達と交流があります。その人達も障害者と友達になれて良かったと言ってくれています。

以上のことは、僕が言うまでもなく定時制高校で数多く実践されてきています。勉強を教える事だけが学校の果たす役割でしょうか。本当に豊かな人間を育てるという意味で、今回の定員内不合格は許すことはできません。定員を充足させるのは学校の義務であり、責務でもあると思います。こういう観点に立って再考をお願いします。

 

 

■定員内不合格を許さない 抗議文

草津良(社会福祉法人ひびき福祉会)

高校進学を意識し出したのは

「中3の2学期に養護学校のエリート学校へ行きたくて受験したが、知能的には十分いけるけど自分のことは自分でできなあかんと言われ僕は手も足も動かんから、身体的に断念した。」「このまんま養護学校の高等部へ行ったら将来施設に行くしかないと思い焦っていた。」

施設が嫌だった?

「今と違って昔の施設は劣悪な環境やっていうのを聞いとったから、それだけはどうしても避けたかった」

普通高校に行くきっかけは

「養護学校にいた一人の先生が普通高校へ行ってみんかと声をかけてきた」

周囲の反応はどうでした

「親も心配から消極的だった」

なぜ

「トイレとか介助者おらへんのに無理やと、でも僕には幼稚園の時の記憶があり友達に頼んだらええと感じていた」

高校側は応援してくれましたか

「高校は親が一緒に来るなら受け入れると言ってきた。基本的に一人では無理と」

養護学校は

「ここはちっさい頃の二の舞は嫌やと頑張った」

「養護学校も前例がないと否定的で、周りの先生や受け入れる高校、親まで全てが反対していた。それでも幼稚園の頃の二の舞は嫌やと頑張った」

いつ親は応援してくれたの

「実は養護学校が勝手に僕の願書を養護学校高等部へ出していた。それを知ったオトンが激怒して卒業まで絶対行くなら普通高校行き認めたると言ってくれた」

なるほど、それからどうしました

「校長室へ乗り込んで、オトンと僕と唯一応援してくれてた先生とで校長に『どないしてくれるんや』と詰め寄ったら校長も謝罪して、嫌々やけど普通高校進学を認めた」

なぜそこまでして普通高校にこだわったの

「僕が普通高校へ行きたい理由は2つあって、1つは健常者の友達が欲しかった、もう1つは施設には行きたくないということで高卒資格など考えてもなかった」

受験について聞かせてください

「受験は養護学校の先生がついてきて代筆をしてくれた」

「養護学校での勉強しかしてなかったので点数的には悪かったと思う」

「合格の通知が来たときはめっちゃうれしかった」

高校にはどうやって通ったの

「卒業して家に戻り、僕の高校生活を支える会ができて、その人たちのおかげで通えた」

いよいよ入学

「入学式の時も『親連れてこい』と言われたけど、あえて親は連れて行かなかった。入学式の時から学校との戦いだった。『親連れてくるというから入学を認めたんや』『そんな約束してない』『全生徒が親連れてくるなら僕も連れてくる』と言い張ったんや」

なるほど、早速戦いだったんだね

「入学式の会場に行ってみると定時制なので怖そうな兄ちゃん姉ちゃんがずらりいて、心が緊張しとったら体が勝手に動いて前に立ってるヤンキーのにいちゃんを思いっきり蹴ってもうた。もう僕はやられるなと覚悟を決めたら、ソンナン気にせんでええでとそのヤンキーが振り返って言うてくれた。よかった」

「その彼と一番最初になんでも話せる親友になった。それにそいつはたまたま学年のリーダー的存在だった」

彼がその後介助してくれたの

「彼はせえへん(笑)子分の連中が介助してくれた。そして生徒たちが『なんで親連れて来なあかんのか、俺らが見るから』と言うてくれて先生たちも渋々受け入れた」

素晴らしい!今でも彼とは交流あるんですか

「今もよくうちを訪ねてくれる生涯の友です」

学校生活の思い出は

「学校の中では同級生たちが抱えるいろんな悩みの相談役になった。相談に乗って代わりに介護を受けると言う感じで、先生たちの介護を受けることはあまりなかった。でも最初は警戒していた先生も徐々に打ち解けてきた」

「1年生の五月に林間学校があり、未だその時点では友達もそんなにいなく、先生も理解がないころで参加を辞めてくれと言われ諦めざるえず悔しい思いをした。4年の修学旅行の時には特殊な車両が要るので積立金以外に30万円言われたが、友人が抗議してくれて負担金が無くなり二泊三日の北海道旅行に参加することが出来た」

卒業の時は

「卒業の日両親が一番喜んでくれた。僕としてはもう少し学校に居たい思いだった」

「学校を出て一人暮らしを始めたときもそのころの友人がいろいろ世話をしてくれた」

「養護学校中等部から普通高校へ進学するという当時は前例のないことをやるにあたり、不安や心配は沢山あったが飛び込んでよかったと思う」

「乗り越えられたのは支えてくれた人々のおかげだととても感謝しています」

 

今回の権田君の件は、障害者差別解消法ができ、社会が障害者への理解を示そうとしているこの時期に大事な教育機関である高校において、こんな差別的な事例がおこってしまったことはとても残念で悲しいことだと思う。

 

 

 

■定員内不合格を出さないでください

浜根一雄(NPO法人サニーサイド)

 

今回の権田くんの楠高校入試で学校長の定員内不合格に対し深く憤りを感じます。「学びたい!」と願う受験生をなぜ落とすのですか!

人は一生が勉強かと思いますが、それぞれが「学びたい!」と願ったときが学びどきです。それをかなえるのが、周りの務めかと思います。

識字教室、自主夜間中学がそうです。夜間中学同様に定時制高校には公教育の機関としてより一層求められます。

私の息子、明が入学したのは、1962年4月でした。小中学校と普通学校ですごした彼ですので、たくましさは身につけていましたが、試験用の学力はついていませんでした。

明の文字の覚え方は、ローマ字からでした。

HITACHI、Toshiba、SONY、National、TOYOTAでした。

TVのコマーシャルから耳に入ったのがこのローマ字だったのでしょう。歌のYMCAではないですが、HITACHIのローマ字を「ひたち」と読んでいました。耳から入るのですね。それが、書くという動作に移っていきました。自分で書くということがそのHITACHIの製品、コマーシャルの中にいてるという感覚なのでしょうか。コマーシャルがかかっていなくても口にすることでそこにいてるのです。

数の概念もずっと持てませんでした。たくさん、少し、ぐらいでしょうか。「○○を3ヶ持ってきて!」とお願いしてもうまくいきません。イチ、ニ、サンとたとえば氷を数えますが、すばやく「1,2,3」と数えれば1ヶでおしまいです。

高校入試のときも、ペーパー上の質問に答えるなどという芸当はまったくできませんでした。中3のとき、西宮市立西高校へ見学に行きました。定時制高校ですから、夜間ですよね。カクテル光線の中でクラブ活動に精を出す生徒さんたちを見ました。昨日のことのように思い出します。たぶん試験はすべからく0点であったと思います。それでも、西高は受け入れて下さいました。いっぱいいろいろ経験をさせていただきました。休まずに通いました。

唯一休んだのが、いやいや休まさせられたことでした。先生方に言われました。「明くんを1週間の停学処分にします」と。理由は、明が同級生たちにつばを吐きかけることでした。何度言っても注意しても止まりません。「このつばを吐くというのは人を見下す最悪の行為です。許してはいけません。その方法として、明が一番楽しみにしている登校を奪います」と。

先生のおっしゃるのは当然です。でも、頼みました。「私から強く明に言いますので、「登校するな」だけはなんとかしてもらえませんか」と。でも、当然のこととして聞き入れてもらえませんで、登校の停止1週間でした。

明はショボンとして学校へ行かず、家で過ごしました。明けて、張り切っての登校でした。何ができるというわけではないのですが、学校が彼の生きがいでした。

自宅の尼崎からは、杭瀬駅まで歩き、阪神電車での通学を2,3回の練習で1人でできるようになりました。「行きたい」の気持ちは心を、行動を強くします。どの子も、教育の中で育ちます。いい先生にも、友達にも恵まれます。

そんな場をぜひ権田くんに保障してください。まちがいなく、権田くんも力をつけますよ。

医療的ケアなど、考えなくてはならない問題はありますが、受け入れる中で共に考えてくだされば、必ずや解決します。親も本人もその気なんですから、定員内不合格はやめてください。学びたい人を受け入れて下さい。

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