震災関連

【報告】 熊本地震の被災障害者の様子をたずねて

文責:野崎泰伸(障問連事務局)

写真:井奥裕之(自立生活センター神戸Beすけっと)

 

神戸市パートナーシップ活動助成(緊急募集)による助成を受け、2016年7月16日(土)~17日(日)に、熊本における被災障害者の支援を行う団体、被災した障害者を受け入れた大学による取り組み、そして、現地で被災した就労継続支援B型、地域活動センターⅢ型施設による取り組みをそれぞれ伺った。井奥、野崎のほかに障問連の凪裕之、凪の介護で同じく障問連の星屋和彦が訪問した。

■各組織の震災後の取り組み

・被災地障害者センターくまもと

被災地障害者センターくまもとは、地元の障害者団体をベースに被災障害者の支援を目的として発災後設立した団体である。被災障害者の安否確認、個別ケース対応などを活動の基本にし、2016年5月1日に発足を正式に公式発表する。

訪問時の活動は、引っ越し作業の手伝いの依頼が多かった。身体障害と精神障害が中心、やや男性が多いとのことである。訪問当日には1日に5~6件の依頼がホワイトボードに書きこまれていた。

現在は、熊本市内に事務所があるが、そのためもあってかきちんとニーズが掘り起こせていない。近く場所をとくに被害の甚大であった益城町に移し、そこを中心に今後の活動を展開していくとのことである。

 

・熊本学園大学における「福祉避難所」

熊本学園大学が熊本地震における被災障害者・高齢者を積極的に受け入れ、「福祉避難所」となったことは全国的な報道もなされ、注目されている。例えば朝日新聞は、「熊本市にある熊本学園大が、地震の発生直後から障害者や高齢者ら「災害弱者」の被災者を受け入れ、自主的に避難所を運営している。一時は最大約700人が避難した。自治体が指定する避難所ではないが、福祉のプロを育てる大学の経験や人脈が生きている」と報じる(「障害者ら受け入れ自主避難所1カ月 福祉系の熊本学園大」,2016年5月11日)。そこで、この取り組みの中心的な担ってきた教職員2名に話を伺うことができた。

避難所開設のアイデアが出たのは、ある1人の被災障害者の行き場がなかったからであると聞く。話を伺った方が、大学なら実習用のさまざまなインフラがあり、当座の避難場所として使えるのではないかと思われたのだ。そこで、教員が学長・理事長にお願いをし、避難所として使うことを認めてもらったのが事の発端だという。

現在はすでに閉鎖したが、避難所の閉鎖の仕方もまた悩ませたという。そもそも、避難所は被災者の自主運営が基本であり、このまま大学が避難所を続けているのも現実問題として難しく、5月28日に学園大の避難所を閉鎖した。

 

NPO法人にしはらたんぽぽハウスの状況

震災以前から障害者事業所として原材料を調達し、加工食品の作成・流通・販売を行うNPO法人の施設長に話を伺った。

登録メンバー25名、自分にできる仕事をしている。震災前から地域でのつながりを大切にしている。昔からの住民には、たんぽぽハウスを知ってもらっている。

震災後、建物は被害を受けたが、他都道府県の社協や、NPO/NGO団体に支援を受け、たんぽぽハウスの活動を再開している。メンバーは自宅や仮設住宅から通っている。1人、別の施設に行かざるを得なくなり、症状が悪化しているのが気がかりである。
■課題と考察

・熊本の地勢とからめて

まず、今回の熊本地震において特徴的だったのは、熊本県の中心部である熊本市よりも、市から東へ進んだ益城町、西原村、阿蘇地方において被害が甚大であったことであり、わけても震源に近い益城町は壊滅的な被害を受けている。都市部である熊本市から、車で30分ほどはなれた農村部であったこれらの町や村は、近年においてはベッドタウン化が進んでおり、田畑と新興住宅地とが併存しているという。

ここに障害者という軸をはさむことにより、何が見えてくるのか。一般的に言えば、障害者にとっては都市部のほうが自立生活はしやすいと言えるだろう。実際に、熊本市の中心部では車イスに乗った重度障害者がヘルパーらしき人物を連れて出歩いていた。また、熊本県内に存在する2つの自立生活センターは、どちらも熊本市内にある。これに対して、農村部では、障害者を囲む支援のあり方は地縁をもとにしていると言えよう。たんぽぽハウスの取り組みを見てもわかるように、「近くの住民と知り合うことによって、障害者も分け隔てなく接する」というのが、地縁に基づく仲間づくりのありようであると言える。農村部が新興住宅地化するということは、こうした農村部の規範が破られるということでもある。昼間は熊本市内に働きに行き、夜だけ眠りに帰るような生活スタイルと、太陽のもとで農業を通し築き上げてきたコミュニティを基盤とする生活スタイルとでは、そもそも求められるものが違う。

いわゆる「近代化」のひとつの要素として、農村部の生活スタイルから都市部の生活スタイルへのシフトが挙げられるであろう。都市部の生活は、ひとことで言えば換金可能な財によって組み立てられる。ところが、震災はそうしたものを破壊する。しかしながら、だからといって地縁に基づくコミュニティが障害者にとってよいものかと言われれば、必ずしもそういうものでもないだろう。地縁は、いったん仲間であるとみなされれば、コミュニティに包摂されるが、仲間外れにされれば、村八分のごとく排除される。また、コミュニティ間のプライバシー意識の低さもある。少なくとも、障害者は排除と管理の対象となり、自立生活を目指して都市部へと転出してきた経緯がある。都市部と農村部のよいところをだけをとったようなコミュニティに再生させる必要があるだろう。

ただ、話しはこれで終わるわけではない。今回の震災が農村部を中心にしたものであったことは述べたが、たんぽぽハウスのような障害者事業所に包摂されていない、自宅から出してもらえない障害者は、震災後の安否確認も容易ではない。被災地障害者センターくまもとが、益城町へと移転する理由も、まさにそこにあると言える。埋もれている障害者、埋もれているニーズを掘り出していくことこそ、真に復興へと向かう道であると考えられるからである。

また、学園大で学ぶ障害学生の中には、地元から出たくない、地元で公務員になりたいと思う者が少なくはないと聞いた。健常者の学生であっても、いわゆる地元志向は強いのかもしれない。しかし、障害学生が卒業後、就職に失敗したとき、どうするのか。公務員への道が閉ざされたとき、いくら差別解消法や熊本県の差別解消条例があるにせよ、健常者のようにアルバイトが見つかるかと言われれば、現実問題としてそうではないだろう。こうした現実は間違ってはいるのであるが、それを学生自身が間違っていることであると認識するのは、決して容易なことではない。制度がある程度は保障され、大学で障害学生支援を受けることが当たり前である世の中で育ってきた学生たちは、「なぜ制度が保障され、支援が当たり前に提供されるのか」ということを考えないのかもしれない。私は、当事者が必要な支援であれば当然受ける権利があると考えるが、ではなぜそうした権利があるのかを考え、障害者の先輩たちが行政交渉を行なって制度を獲得してきた格闘の歴史を後輩の障害学生たちにも学んでほしいと思う。その意味でも、地元からいったん都市部、たとえば福岡県の中心部、広島市、関西圏とりわけ京阪神あたりに出てきて、吸収できるものを吸収してほしいと考えている。熊本県にしても、団体の枠を超えた障害当事者の結集があったからこそ、差別解消条例へと結実したのであって、決して行政が上から与えたものではない。当事者たちの粘り強い運動があったからこそ条例が制定されたのであって、そのような歴史の上に障害学生が生きていることは、少なくとも本人は知る必要はあるのではないだろうか。理不尽な現実を理不尽だと思わないようにさせられるのであれば、そうした現実それじたいを変えていくことが必要だろう、そのように私は感じた。

 

・衣食住の問題

誰にとっても、衣食住は生きていくうえで欠かすことのできないものである。震災は、人間が衣食住にたどりつくこと、言いかえれば人間と衣食住との合法的な所有関係を根こそぎ破壊するものであると言える。

障害者にとっては、障害のない者よりもより切実にこうした関係を問われてしまう。所得保障が十全になされないなら、震災でつぶれやすい家にしか住めない。また、農村におけるいわゆる日本家屋も、身体障害者には使い勝手が悪い。

益城町には、すでに仮設住宅が立てられていた。通りを車内から眺めただけだが、外見もバリアフリー仕様ではなかった。障害者の住める場所は、果たしてあるのだろうか。差別解消法が施行される4年も前に、熊本県では県の条例も施行された。また、伺った被災地障害者センターくまもとの東さんは、内閣府で解消法制定のために尽力された方でもある。阪神淡路大震災や東日本大震災においても同様のことは起こっている。尋ねこそしなかったが、東さんのなかには、忸怩たる思いがあるに違いない。

伺ったたんぽぽハウスが、食にかんする作業場所であることは割り引いて考えるにしても、施設長が「食は生きるうえでいちばんの基本です」と話されたことは確かであろう。

 

「食べる」という行為はもちろん、一次的には自身の文字通り血となり肉となり骨となる、つまり「栄養を摂る」という行為である。そのうえで、「食を通して人とかかわり、つながっていく」ことがある。とりわけ、被災地において「食事を囲む」という経験、「おいしいね」と言い合える体験は、つながり合って生きていることを実感させるものになるだろう。たんぽぽハウスでは、地域住民に「食堂」という名で安価で食事を提供していた。もちろん、被災地において食べ物がなかなか入手できなかったりすることもあるだろうが、「食堂」を通して障害者が地域住民とつながり、障害者が自然にコミュニティの一員として溶け込めるような「戦略」でもあるだろう。昨今話題の「子ども食堂」にしても、一次的には貧困家庭の子どもに食事を無料もしくは安価で提供し、必要な栄養を摂ってもらうことが目的かもしれない。しかし、そうした場を通じて、人間関係まで貧困になってはいけない、どこかとつながっていることの実感を持ってもらうためのものにもなることがわかる。 

■神戸から考える/神戸において考える

2016年で阪神淡路大震災から21年経過する。今後、熊本でも神戸と同様に被災からの年数を経ていくことであろう。阪神淡路が都市直下型地震であったこと、そこにおいて独特の障害者運動が展開されていたことが、神戸や阪神間の障害者たちの復活に影響したのは言うまでもない。熊本は神戸や阪神間地区とはまた違った道を進み、復活の礎を築くだろうし、私自身も微力ながら何らかの形で寄与できればと思っている。

しかし、「震災がいつまでたっても被災者の胸に残り、終わることはない」ということは、共有できるのではないか。震災は起こってしまった、死傷者が出てしまった、壊滅的な被害を受けてしまった、それは悲しく、絶望的なまでの無力感に苛まれもする。しかしそれと同時に、そこがまた新たな始まりであり、そこからしか新たな始まりはない。

今後の復活にあたっては、ひたすら住民の立場で、住民目線での復興へのロードマップが描かれることを願っている。20年過ぎた現在、神戸や阪神間の地域では、復興住宅の期限で住民に退去が迫られるという問題が噴出している。50歳で被災して復興住宅に入居できても、20年後の70歳になれば出ていってくださいと言われるのは、なんとも酷な話しである。東日本大震災の被災地でも同様のことは予想される。神戸付近のこのようなことがないように、経過を風化させずに伝えていくこともまた、神戸で被災した私自身の責務であると思っている。

 

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