教育

【報告】   「地域で共に学び共に暮らす西宮に!!インクルーシブ教育セミナー」の報告

水谷佳奈子(伊丹 作業所じゃがいも職員)

 

1月23日、「障害が重いとされる人も地域で共に学び共に暮らす西宮に!!」と題し、インクルーシブ教育セミナーが西宮市総合福祉センターで開催された。

医療的ケアを必要とする子どもたちに注目するこのセミナーは、西宮市でそのような児童が地域の小学校への就学に向けて頑張っていること、その現状と今後の課題について参加者で共有しようと集まったものだ。他地域の動きとしては、昨年4月、隣の宝塚市で人工呼吸器を必要とするМちゃんが地域の小学校に入学を果たし、大阪府では100人以上の医療的ケアが必要な児童が地域の学校で学んでいる。そのうちの一人、大阪府箕面市の小学四年生の巽康裕くんとそのお母さんがこの日ゲストとして招かれ、どんな学校生活を送っているのかを中心に講演された。

 

クラスの中にある居場所

様々な病気をもって生まれてきた康裕くんは1歳で気管切開をし、それから人工呼吸器と共に生活をしている。約3年の入院生活を経て自宅生活を歩みだした途端、筋緊張や発作がぴたりと止み、感情表現が豊かになった康裕くん。日に日にたくましく成長する姿を目の当たりにしたお母さんは、この当たり前の生活こそが康裕くんの望んでいることなのだと、地域の小学校へ入学させることを迷うことなく希望されたそうだ。教育委員会や学校と何度も話し合い、無事入学。約3か月の付き添い期間を経て、現在は毎日、教育委員会が用意した介護タクシーに乗車している看護師さんに、「行ってらっしゃい」と康裕くんを託しているのだという。

ほぼすべての授業をみんなと一緒に受ける日々。クラスの子どもたちは返事が返せない康裕くんにも、一生懸命話しかけてくれている。他学年の子に「こうちゃんは喋られへんけど全部聞こえてるねんで。優しくしないとあかんねんで」と言ってくれる頼もしさがある。2年生で教室の電気をつける電気係になっていた康裕くんが、たまたま朝来るのが遅れた時のこと。先生が暗い部屋の電気をつけようとすると、子どもたちに「電気係はこうちゃんやで」「こうちゃんの仕事やから先生がつけたらあかん」と口々に言われたと、後日懇談会で先生が教えてくれたそうだ。運動会のマスゲームでは、康裕くんの動きを子どもたちが身体で覚えていて、うまくよけながら最後には康裕くんが真ん中になって見事に終わった姿にお母さんは驚いたという。

たくさんのエピソードの中に感じるのは、クラスや学校、地域の中に確かにある康裕くんの居場所。これは、先生が指導してできたものではなく、子どもたちが同じ場所で共に学び共に遊ぶなかで自然と出来てきたものだ。医療的ケアが必要だから特別な配慮を整えることが最初にあるのではなく、まずは同じ場所で生活する、学ぶ、何でも一緒にやってみる、そこから必要な配慮をみんなで知恵を出しながら整えていくことが大切なのだと、巽さんのお話を聞きながら思った。

巽さんのお話のあと、バクバクの会の方々から発言があった。保育所から高校まで地域の学校に通い現在自立生活を送る折田さんの「僕を知ってくれている人がいればいるほど僕の暮らしは楽になる」という言葉が印象的であった。

 

宝塚からの報告

昨春、地域の小学校普通学級に入学したОさんが通う小学校の校長先生が、この1年の様子を報告された。4月1日に赴任してきたと同時にОさんの入学準備に奔走したといい、1名の看護師は決まっていたものの介助員や交代の看護師はまだ手配できておらず、校長先生自らが動いて確保したこと、入学式の後保護者や子どもたちの前でОさんの紹介をしたことなどを話された。初めは少なからず不安が多かった教職員たちも実際にОさんの姿を見て声を聴き、お母さんの話を伺うことで不安が消えていったという。また、避難訓練も実際にやってみて想定と違っていたことがたくさんあり、何回もやってみることが大事とのことだった。

 

西宮の現状は…

そして、西宮での現状報告があった。この4月から地域の小学校への入学を希望するМさん。食事を口から摂るのが難しく胃ろうをつけて生活している。小さい頃から幼稚園に入り、子どもたちの輪の中で自然に過ごしてきたので、このまま小学校も地域の学校に通わせたいと幼稚園年中組の秋に地域の小学校に相談に行った。校長先生はとりあえず教育委員会に行って下さいとのことだった。教育委員会は最初こそ一緒に考えていきましょうと言ってくれたものの、いざ具体的な話となると「前例がない…」と後ろ向きな対応をされ、思い悩んだそうだ。いろんな人に応援してもらって、くじけそうになる自分の気持ちを立て直しながら訴えていった結果、ようやく教育委員会から看護師と学校協力員(介助員)を配置しましょうという言葉をもらったという。粘り強く交渉すれば教育委員会にも気持ちは通じるように感じるが、この間日々闘ってきたことに触れ「ただ学校に行きたいというだけなのに、こんなに苦労しないといけないのか」と涙ながらに語りかけるお母さんの姿には心を揺さぶられるものがあった。

また市内の養護学校に通う保護者から、様々な発言が上がった。お母さんが付き添いをして週3~4日通っている。下の子は現在2歳で託児所に預けながらの付き添いだ。看護師は学校にいるが、ケアできないとのこと。「・・・どうしたら付き添いなしで子どもを学校に通わせることができるようになるのか、私たちが落ち着いた暮らしが送れるようになるのか、話し合いをしても納得のいく答えはもらえずいつも頭打ちになってしまう」とお母さんは声を詰まらせながら語っていた。特別支援学校で看護師もいるのに医療的ケアをしてもらえず、しかも義務教育であるにも関わらず学校が決めた曜日にしか通えないという現状に、会場からは驚きの声があがった。せっかく声をあげてくれたのだからお母さんを一人にせず何かつながるものができないのでしょうか、お母さんの駆け込み寺のような、なおかつ公的機関とつながった場を作る必要性を訴える保護者もおられた。市内の福祉関係者からの発言も続き、セミナー参加者一同として、通学日数を制限されたり、保護者の付き添いを強要される事について、なぜそのような現状があるのか、どうすれば解決するのか、みんなで取り組みましょうと確認された。

 

みんなと同じ学校に行きたい、毎日学校に行きたい。こんな当たり前のことを願うだけなのに、障害があるというだけで困難な道のりとなる。我が子が生き生きと暮らすことを願い、勇気を振り絞ってお母さんたちが声をあげる、そのことを私たちは自分なりに受け止めていかなければならないと思う。かくいう私も、障害のある息子がおり地域の小学校に通わせている。この集会に参加して、自分にもまだまだできること、しなければならないことがたくさんあるように感じた。

 

〈セミナー資料より〉

≪共に学び、成長しあえる学校 ~みんなの中の康裕~≫

わが家の長男である康裕は、箕面市立豊川北小学校へ通う4年生。人工呼吸器をつけながらも、地域で成長し、共に学びたいと、地域の小学校を希望しました。康裕は、学校が大好きで、通院以外の欠席は1度もなく、毎日張り切って通っています。

思い起こせば、康裕が産まれ、本当にいろいろなことがありました。

康裕はダンディー・ウォーカー症候群、脳梁欠損症、肺低形成症、横隔膜ヘルニアなど、様々な病気をもって生まれ、1歳で気管切開、呼吸器と共に生活しています。約3年の入院生活、“もうダメかも”と言われながらも、何度も危篤状態を脱してきました。

この病室の白い天井、白い壁がこの子の家じゃない。一度でいいから自宅に連れて帰り、家族との生活、当たり前の生活をさせてやりたいと思い、手探り状態で在宅の道を歩み出したのでした。

在宅での生活を歩み出したとたん、あれだけ激しかった、シャチホコのような筋緊張や発作もピタリと止み、今や周囲がびっくりする程の健康児。当初心配されていた体調変化もなく、いろんなところへお出かけしてきました。

在宅に対し、不安がなかった訳でない私は「あっ、こう言う事か!」と、それこそ目からウロコでした。たとえ同じベッドの上でも、絶対に病院では感じられない生活の音や家族の声が肌で感じられ、安心できる空間。守られていると思っていた病院は決してそうではなく、生活の場ではないと感じました。

近所の車の排気音や電車の警笛を聞きながら、暑さ寒さも肌で感じます。夏は庭のゴムプールで泳ぎ、冬は毛糸の帽子とマフラーを着て外出し、日々成長し強くなり、感情表現もますます豊かになった康裕から、私はたくさんのことを教えてもらいました。

 

当たり前の生活を共に過ごすことの大切さを、身を持って教えてくれた康裕。これが康裕が望んでいることなんだ!と感じた私は、全く迷う事なく地域の小学校入学を選択、希望していました。

1歳で呼吸器と共に生きている康裕にとっては、呼吸器は延命装置や特別なものではなく、眼鏡や補聴器と同じ感覚。旅行へ行くのもお友達と遊ぶのも大好き。そして、この上なくお肉が大好き。最近では私がベタベタするのが恥ずかしいのか?少し反抗期も見せる、私にとっては、みんなと同じように愛する我が子。みんなと一緒に勉強し、遊び、いろんな刺激をもらい成長していっています。

呼吸器をつけているから…医療的ケアが必要だから…特別なんじゃなく、健康な子どもと同じ様な教育の場、生活の場を与えてほしい。地域で助け合い、学校で、そして社会で見守ってほしい!そう願い、目標に向かい、準備に取り組んでいました。

教育委員会や学校と何度も話し合い、康裕のハンドブックを作り…と、気がつくとあっという間に入学式を迎えていました。

 

入学式当日、先生に車椅子を押してもらい、お友達と手をつなぎ入場してきた康裕。「康裕、これからが本当のスタートだね!」と嬉しく保護者席から見ておりました。

 

学校へ通い出し、早4年。付き添ったのは、最初の約3ヶ月でした。家から「いってらっしゃい」と迎えにくる看護師さんに託し、6時間目の授業が終わって帰ってくるまで、学業に、遊びに、一生懸命励んでいます。

康裕は、よほどの体調不良でもない限り、みんなと一緒に授業を受けています。嫌いな科目は算数、好きな科目は音楽、体育。そして、給食!康裕は基本、胃瘻からの注入で栄養は取っていますが、口からの味もちゃんと分かるため、飲み込むことはできませんが、給食を小さく切ってもらい、みんなで大好きな給食の時間を楽しんでいます。お肉の時は、康裕が大好きなことを知ってるので、お友達がたっぷりついでくれるとか…。

2年生の懇談時に、担任の先生が教えてくれたエピソードです。康裕は、“電気係”というものをしていました。名前のとおり、教室の電気をつける係です。ある雨の朝、おむつ替えや投薬などで、授業行くのに遅れたそうです。先生がクラスに入り、真っ暗い教室の電気をスッと付けようとした時、みんなが口々に、「先生、電気係は康ちゃんやで。」「康ちゃんさっき着いてたし、もう来るで!」「康ちゃんの仕事やから、先生がつけたらあかん。」と口々に言い、康裕が来るまで真っ暗い中で授業をしたそうです。

それは、康裕がクラスの一員であること、みんなの中に康裕がいる。そして、役割りがある。「康裕くんがいることによって、とても優しい、良いクラスになってる。子どもたちに、僕が教えられることもたくさんある。」そうおっしゃった先生の言葉を、とても嬉しく思いました。

運動会、遠足、音楽会、プールに防災訓練…ひとつひとつに、書ききれないぐらいのエピソードがたくさんあります。詳しくは、また当日に!

ここには康裕の居場所がちゃんとあります。それは自然とできた康裕の居場所。子どもたちの世界は、子どもたちが作っていくのだと、地域の小学校へ通い、改めて実感しています。

確かに康裕は、出来ないことがたくさんあります。けど、みんなからいろんなことを学び出来ることも増えてきました。そして、大切なたくさんの事をまわりに伝えています。共に学び、共に成長しあう素敵な 学校生活をこれからも過ごしてほしいと、心から願います。

 

 

 

地域の小学校へ通い、変わったこと

・同年代の友達ができた

保育園にも通うことができなかった康裕。療育園には通っていたものの接する相手と言えば、先生や訪問看護、ヘルパーなどの大人相手ばかりで、同世代のお友達はできませんでした。ですが、地域の学校へ通いだし、みんながお友達になりました。子どもの世界は、何もしなくても自然に広がっていく!言葉なんていらないんです。

驚くぐらいの活気の中、「巽くん、一緒にドッヂしよう!」「康ちゃん、おりがみ折ったげる。」と、いつも人気者のようです。帰宅後、「今日はお友達なにして遊んだの?」と聞いた時の、今までに見せなかったような康裕の満足そうな表情を見ると、私まで嬉しく胸が熱くなる日々です。

 

・康裕の居場所がある

今まで康裕を連れて歩いていると、初めて康裕をみる子ども達は驚き怖がってしまい、こちらから話しかけても逃げていくことが多かったのですが、今では近所の散歩をしていると、「巽くんだ!康ちゃんだ!どこ行くの?」などと、同じ学年やクラスでないお友達にまで声をかけてもらえます。「今日、廊下で会った時、授業行きたくなさそうだったよ!」「今日、巽くん、給食のにんじん口から出したよ!」などと、私が知らない学校での出来事をたくさん教えてくれます。

初めからいる康裕に対し、子ども達は当たり前に康裕の居場所を作ってくれました。康裕の中にみんながいて、みんなの中に康裕がいる!そんな当たり前の、しかし障害をもっている子ども達には一番作るのが難しい居場所。そんな居場所が康裕にはあります。

 

・生活のリズムができ、夜中の吸引回数が減った

昼夜ベッドの上で過ごしていた康裕。夜に寝るという感覚はなく、(起きていると吸引回数は多い)夜中でも30分おき、1時間おきに吸引が必要といった感じだったのですが、学校へ毎日通い出しリズムがしっかりできたこともあり、今では夜中の吸引は2時間空くこともめずらしくなくなり、かなり減りました。

 

・表情が豊かになり、呼びかけに反応するようになった

これはなんといっても、毎日の活気づいた子どもたちの世界にいることが大変大きいと思います。痙攣発作で脳にかなりのダメージを与えてしまった以後、反応もないに等しく何ひとつ動きがなくなってしまいました。検査ではもちろん、目も耳も聞こえない、今後も厳しいと言われていた康裕ですが、今では子どもたちや先生方の呼びかけにしっかり反応し、足や手を自分で動かしたり、大きな音にびっくりしたり…。嫌な時や嬉しい時の表情もしっかりあります。

そしてそれを、お友達や先生が気付いてくれ、「今日ね、康ちゃん喜んでたんだよ。」などと聞いた瞬間、心から日々成長できる喜びを感じます。

 

・地域の繋がりができた

小学校までは、療育園しか通っていませんでした。車が必要な遠い場所なのもあり、障害をかかえた繋がりはあるものの、生活に追われていた私には、近所の繋がりは全くありませんでした。ですが地域の小学校へ通いだし、それが180度変わりました。外に出れば、お友達に会え、「今日の康ちゃんね!…」と報告を受け、「何かあったらいつでも言ってよ!」と言ってくれるママ友とも出会え、近隣の繋がりが一気に広がりました。停電があった時には「康ちゃん、呼吸器の電源大丈夫?」とすぐに声をかけてくれたりと。こうやって地域の繋がり、助け合いができることに感謝し、なにより心強く思います。

 

・親の睡眠不足も解消され、時間に余裕ができた

365日24時間、常に目を離すことのできない吸引などの医療的ケア。安心して睡眠がとれる時間は、訪問看護やヘルパーの間の2,3時間程度。それも毎日はなく、外出どころか常に睡眠不足と闘っていました。それに親の介護が必要となった時には、もうお手上げ状態でしたが…。今では康裕が学校へ行っている間に睡眠を取ったり外出したりと、生活に余裕もできてきました。それは親だけのことでなく、康裕にとっても安心した生活が送れることに繋がっています。

 

最後に…(先生方へ)

康裕が生まれ、病気が分かり、なんで康裕が…なんで康裕なの?…と、泣いていたばかりの日々。そして何かを変えようと必死にもがき、なにひとつ変わらない現実に、「生きることってなんなんだろう?」「平等ってなに?」と抱え、悲嘆してばかりしていた頃もありました。

“当たり前に思っていたことの本当に大切さ”を我が子に教えられ、“おうちに帰る”“小学校へ通う”“友達を作る!”ということを康裕と約束し、目標にし、今まで歩んできました。たとえ人より短い時間でもあったとしても、今この瞬間を大切にし、一生懸命生きること!たくさんの経験、出会いを大切にしていきたい!と…。

目標にしていた地域の小学校へ通うことができ、今こうやって改めて字にし、これだけもの康裕の成長があったんだな…と、改めて実感しました。ひとつ変えることの難しさ。嫌というほど聞いた余命や予後。今ではとっくに越し、成長する康裕と共に過ごせるのは、先生方やお友達、地域の繋がりがあってからこそ、これだけものことが変わり、日々成長に繋がっているものだと、心から感謝しています。“地域の小学校へ”と決めてから、多少のリスクも心配しましたが、親の心配などそっちのけに、本人は今まで以上に元気に育っています。それは、なんにでも挑戦!皆と共に過ごさせていただけてるおかげだと思っています。かけがえのない、出会い・経験・繋がりがあってこそ、今があります。

まだまだ課題もありますが、知恵をかり力をかり…より安心に安全に、学校生活を精一杯楽しみ、成長していきたいと思っています。

これからもどうぞ、よろしくお願い致します。

 

【この文章は1年生3学期、先生が康裕のことを発表する機会があり、変化を教えてほしいとまとめたものです。】

 

巽 奈歩

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