震災関連

【報道】 阪神淡路大震災から21年/障害者と震災

毎日新聞は、1/17の前週、1週間かけて「災害弱者・支え探して」という特集を組んでいました。東日本大震災で行政が障害者の名簿を情報保護を盾に開示しなかったケース、在宅難病患者の停電時の備え、放射能からの避難、そして大阪の「ゆめ風基金」の活動など、さまざまな角度から「障害者・難病者と震災」の問題を扱っていました。以下では、連載の1回目の記事を転載します。震災2週間後からの垂水養護学校での避難の様子です。ウィズアスの鞍本さん、兵庫区在住の合田知加さん、長田区在住の山本聖一さんなど、私たちともかかわりの深い方々が紙面に登場されていました。1面記事は全文、27面の記事は抜粋して転載します。

 

 

■災害弱者・支え探して/1(その1) 阪神大震災21年 障害者、ともした命 行き場なく教室で共同生活144日

毎日新聞2016年1月10日 大阪朝刊

http://mainichi.jp/articles/20160110/ddn/001/040/004000c


福祉避難所の原型、「人生の転機」

暮れも押し迫った昨年12月10日、神戸市垂水区の市立垂水養護学校「A教室」に車椅子の障害者やボランティアら16人が集まった。阪神大震災が発生した21年前、避難場所がない障害者はここで144日間、身を寄せ合った。一般避難所では過ごせない障害者や高齢者らのために開設される「福祉避難所」の原型となった場所だ。

避難所は「垂水障害者支援センター」と名付けられ、震災約2週間後の1995年2月2日から同6月25日まで、多い日は13人が過ごした。介助が必要な人ばかりで、ボランティアも全国から延べ約400人が駆けつけて泊まり込んだ。

障害者の多くが、住宅再建や被災手続きに追われる親と離れての初めての共同生活だった。それは、これまで経験しなかった健常者と触れ合う機会にもなった。

学校側に避難所開設を働きかけたNPO法人「ウィズアス」代表理事の鞍本長利さん(65)=神戸市長田区=は「ここは、障害者が震災に負けずに命をともし続けた場所」と話す。

脳性小児まひで車椅子に乗る合田知可(ちか)さん(41)=同市兵庫区=は、ポートアイランド(同市中央区)のマンションで被災し、母と2人で壊れた建物に居残って孤立していた。「また地震が起きたら2人で死ぬしかないのか」。母の言葉に「一緒に死のか」と答えた。センターに移ってからは同世代のボランティアらと出会い、「将来のことなど悩みを語り、生き方を変える転機になった」。震災後、避難体験が自信となって1人暮らしを始めた。ボランティアとは今も交流が続く。

「なぜ、障害者・健常者とわざわざ区別するのか。そんなことに疑問を覚え、自分自身の人生を真剣に考えたのが震災だった」。手足が不自由で電動車椅子に乗る佐藤栄男(しげお)さん(40)=同市兵庫区=はA教室での日々を振り返る。学生ボランティアらが就職活動の話をしていた時、自分だけ会話に参加できなかった。「なんで俺は就職できないねん」とショックを受けた。今は1人暮らしをしながら作業所に通う。「『障害者にやさしいバリアフリー』の発想ではなく、街に住む人みんなにやさしく、便利になる社会に変えたい」と訴える。

避難所閉鎖の前日にみんなが開いた「お別れ会」。ボランティアが捕ってきたホタルを教室の窓から放った。外の世界に消えていく小さな優しい光。仲間と一緒に眺めていた鞍本さんの長女麻衣さんは、この世にいない。重度の脳性小児まひで寝たきりだったが、3年前にたんをのどに詰まらせて亡くなった。38歳だった。避難生活中、気管支炎となり、2カ月入院した。麻衣さんも震災を乗り越え、ホタルのように懸命に命をともし続けた。

学校は来年度末で閉校になる。集まったみんなは、手を取り合って生きた「A教室」をもう一度、目に焼き付けた。

□  □

障害者や高齢者ら災害弱者の存在は阪神大震災でクローズアップされ、多くの課題が浮かび上がった。震災から間もなく21年。教訓は生かされているのか。

指定、自治体45%止まり

阪神大震災では避難生活の長期化で十分な支援を受けられない高齢者や障害者らが、持病を悪化させて死亡するなど「震災関連死」が多発した。厚生省(当時)の研究会が1996年、「福祉避難所」を災害前から確保するよう提唱。2007年の能登半島地震で福祉避難所が初めて開設された。福祉避難所は市区町村長が福祉施設や公共施設を指定するが、東日本大震災時は事前指定は進んでおらず、急きょ開設されたケースでも住民に開設情報をどう伝えるかなど課題を残した。

災害対策基本法の13年の一部改正などで、市区町村による指定避難所(福祉避難所含む)の指定が明文化された。ガイドラインでは、車椅子や紙おむつなどの介助用品が備わっていることや、おおむね10人の利用者に1人の介助員を置くことなどを求め、小学校区に1カ所程度の指定を推奨している。

内閣府の実態調査では、福祉避難所を指定している市区町村は14年10月時点で全体の45%。福祉避難所の運営管理者への抽出調査(15年1月時点)では、災害時の職員向けマニュアルを作成していたのは36%▽災害時に利用者10人に1人以上の介助員(生活相談員)を置くとしたのは29%−−にとどまり、課題が浮かんだ。<27面につづく>

 

 

■災害弱者・支え探して/1(その2止) 阪神大震災21年 障害者、綱渡りの日々 30人以上が雑魚寝、本音言い合った

毎日新聞2016年1月10日 大阪朝刊

http://mainichi.jp/articles/20160110/ddn/041/040/009000c

 

<1面からつづく>

福祉避難所、東日本大震災時、福島県で11市町村計37カ所開設されず−−

(前略)やって来たボランティアは初めて障害者と接する人が多かった。緊張すると全身が硬直して痛む合田知可(ちか)さん(41)=神戸市兵庫区=は「心配して5人も隣に寝てくれるけど、してあげるという気持ちだと気を使ってしんどい。お願いした時だけ手を貸して」と訴えた。

ストレスを抱えながらも24時間顔をつき合わせていると、本音を言い合えるようになった。炊事当番の合田さんは食事のアドバイスをし、「消灯係」は午後10時半に明かりを消した。(略)

この時の経験が障害者らをたくましくしていた。脳性小児まひの山本聖一さん(37)は震災翌年に母親、6年前に父親を亡くしたが、今は長田区の市営住宅に1人で暮らして作業所に通う。「共同生活で励まされ、外へ出る勇気がわいてきた」という。仲間の多くも1人暮らしを始めた。鞍本さんは「当事者が孤立しないよう、地域とつながりを作っておかなければ、次の災害でも同じ事が繰り返される」と訴える。1人暮らしはその地域とつながる第一歩だ。(後略)

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