【書評】 『増補新装版 障害者殺しの思想』(横田弘著、現代書館)
野崎泰伸(障問連事務局)
本書は、1979年にJCA出版から刊行された同名書の復刊である。著者である横田弘さん(1933-2013)は、長らく青い芝の会神奈川県連合会に所属し、全国青い芝の会会長も務められた。
本書が問いかけるもの、それは障害者、とりわけ脳性マヒ者の生命を「本来あってはならない存在」としてないがしろにし、隔離し、抹殺するような社会のあり方であり、また、人々の意識のありようである。これらを横田さんは、障害者の生命の視点から、鮮烈に問うたのである。
まず驚くのが、きちんとした事実の列挙である。本書においては、障害児の殺害や出生前診断、それに養護学校の義務化が、それぞれ障害を持つ者に対する差別であると痛烈に批判されるのであるが、その際に、新聞記事や交渉の記録などが多く引用されていることが特徴として挙げられる。そのような事実に基づいて、横田さんはこの社会が障害者を排除するものであると分析する。
本書で横田さんが批判の中心として挙げているのは、「社会の良識」(p.56)なのではないかと思われる。障害を持った子を親が殺すというとき、それを「福祉行政の貧困」のせいにし、「施設の拡充」を求めるのが世の常である(p.53)。しかし、青い芝の会は親の差別意識として、「障害児を施設に入れてしまえば解決する」というような安易な方法こそが、障害者を隔離抹殺していくものであると批判するのだ(pp.53-54)。重症児がオムツを替えるために尻を上げようとするのも労働であるというときも、親たちは単なる力仕事の意味でしか理解していないのではないか、それに対して横田さんは、重症児の労働を、「自己の生命を燃焼させうる場」としてとらえるというのも非常に特徴的だ(p.56)。
横田さんと言えば青い芝の会の行動綱領を作ったということでも有名であるが、そのひとつとしてある「愛と正義を否定する」について、次のようなことを述べている。
「「正義」とは絶対多数者の論理であり、「抹殺する側」が「抹殺される側」の論理を屈服させる為に用いる名目である。現代社会にあっては「健全者」は絶対多数であり、その絶対多数者の論理こそ「正義」と名付けるのである。「障害者」を巨大コロニーに隔離収容することも「正義」であり、「障害者(児)」殺しの親たちを減刑運動という形で社会に組み込むことも「正義」であり、もっと言うならば「優生保護法」で「不良な子孫」を防止するとかが最もすぐれた「正義」ということになるのである。「正義」によって疎外され、抑圧される「障害者」である私たちが何故「正義」を肯定しなければならないのだろうか。私たちは「正義」が絶対多数者の論理である以上、断固としてこれを否定しなければならないのである」(p.119)。
これはすなわち、単純に正義を否定しているのではないと私は考えている。絶対的多数者の位置にあり、「数は力なり」とばかりに君臨するようなものを「健全者の論理」=「正義」として批判しているのだと、私は解釈する。誰をも疎外せず、抑圧することがないのが真の正義ではないのか。
横田さんの批判は、国家権力や行政のみならず、障害者自身、当の横田さん自身にも及ぶ。「よく「体は障害者でも心は健全だ」という言葉が使われる。これも健全者が障害者をとり込む手段として使われるならばまだ話は分るし、私たちも騙されることはないのだが、問題なのは、障害者自身そう考えるのは正しいこと(中略)と考えていることなのである」(p.160)。そしてまた、障害者の「自己存在の否定」(p.118)をも問題としているところに、横田さんの思想の特徴がある。
いまだに、横田さんの主張が新鮮かつ根源的であるのは、裏を返せば障害者自身の力強い運動は展開され続けてきたが、根本的な社会の価値観についてはまったく変わっていないということではなかろうか。復刊を契機に、多くの人たちに横田さんのメッセージに触れてほしい。
7月 1, 2015