【報道】 新聞記事より(阪神淡路大震災)
【報道】 新聞記事より(阪神淡路大震災)
野崎泰伸(障問連事務局)
2015年1月17日で、阪神淡路大震災から20年が経過しました。この間、マスコミも追悼番組等で当時の様子を振り返ったりもしていますが、もともと〈生きづらさ〉を抱えさせられたマイノリティの「震災後」については、なかなか報じられません。神戸市内や阪神・明石・淡路地区には、マイノリティと呼ばれる人たちも多く住んでいました。
障問連も、亡くなった大賀さんが姫路から膨大なFAX通信を出され、安否確認をされていました。それに基づいて、地元拠点のネットワークを生かしつつ、「障害者による復活・救援活動」を進めることができたのです。震災以前の平時につながっていたネットワークが、震災という有事に活用できたことを、私たちは身をもって知ったところです。
そんななか、朝日新聞が、「災害弱者の20年」を連載しました。その1回目に、福永年久代表と、ウィズアスの鞍本さんとが掲載されましたので、当該箇所を抜粋して引用します。
■(ともに 災害弱者の20年:1)試行錯誤の福祉避難所 迅速な誘導へ「事前ルールを」
朝日新聞デジタル 2015年1月15日05時00分
http://www.asahi.com/articles/DA3S11551125.html
□出発点は阪神大震災
福祉避難所が生まれたきっかけは20年前の阪神大震災だ。避難が難しかったり、避難生活の体調悪化で命を落としたりする高齢者や障害者ら「災害弱者」の対応が課題としてクローズアップされた。
1995年1月17日朝、兵庫県西宮市の福永年久さん(62)はベッドで激しい揺れに襲われた。寝室の家具が倒れ、熱帯魚の水槽が割れて水をかぶった。身動きもできないまま、「助けてくれ」と叫び続けた。
脳性まひのため手足が自由に動かせず、車いす生活を送る。近所に住む介助ボランティアの学生が約15分後、駆けつけてくれた。
福永さんは震災前から障害者の自立運動に携わり、障害者仲間や支援者とネットワークがあった。地域の避難所を回ると、段差で車いすが使えないなどの理由で障害者は壊れた自宅に戻っていた。「邪魔や」と言われた人もいた。
全国の仲間と「被災地障害者センター」を立ち上げ、大阪市の協力も得て東住吉区の市立早川福祉会館に障害者向けの避難所を開設。避難先のない障害者を探し出し、約20人を車で運んだ。
(後略)
□3・11で「想定外」続々
(前略)
移動の問題もある。阪神大震災で障害者を支援したNPO法人・ウィズアス(神戸市)の鞍本(くらもと)長利代表理事(64)は「電柱が1本倒れているだけで車いすは通れない。福祉避難所の指定で終わりではなく、当事者と地域の人が日ごろからつながりをつくっておくことが大切だ。行政も支援してほしい」と話す。
2月 1, 2015