【阪神大震災から20年目を迎えて】 ~ あの日から ~
【阪神大震災から20年目を迎えて】 ~ あの日から ~
高瀬建三(いこいの場ひょうご)
私は生きていてる。とても不思議だ。1995年の震災前、孤立して引きこもり状態だった私に声をかけてくれていたのは、私が関係していた障害者団体のメンバーと支援者のみ。それ以前から「眠れない」「食事が摂れない」「自治会や周りの人と話ができない」など、困ったことは数えきれないほどあった。
私は精神障害者だ。睡眠障害、抑うつ、妄想などの症状があるため、これまでいつ自殺してもおかしくなかった。それが生きているのは震災で被災し、生き残ったから。
20年前、路上生活者支援の「越冬支援」にいつものように大阪市西成区へ出かけた。そして半年後、神戸の我が家へ戻り、薬の力を借りて眠った。
その翌日、1995年1月17日午前5時46分、「そいつ」はいきなり来た。真っ暗闇の中、巨大なジェットコースターに乗せられた私は、訳のわからぬ方向へ振り回され、「ワァー」と絶叫するだけだった。悪い夢から目覚めた私は外へ放り出され現実と向き合った。我が家全壊。隣家の瓦屋根は原型をとどめておらず、その前で若い男が夜明けの空を切り裂くように叫んでいた。
表通りに出た私は、毛布一枚で裸足の人々、頭から血を流した人々、怯える子ども、揺れ続けるマンションの給水塔、「サンドウィッチ」になったビル、垂れ下がった電線、亀裂の走る道路を脇目に言葉もなく、ただ指定避難所には本能的に行けなかった。そこへ行けば発病時のようにパニックになり孤立すると思ったからだ。
その足で直ぐ普段行き慣れた近くのデイケアセンターへ行った。そこでやっと自分の居場所を、空気を吸える場を見つけた。その後も大きな余震が続く不安な夜を過ごした。外で広報車が走り回り「工場地帯でガスが気化して爆発の恐れがあり、直ぐ避難して下さい」と避難命令を報せていた。その指定避難所は歩いて40分ぐらい先の急坂の小学校。車椅子障害者と一緒に停電し地割れした夜道をどうやって・・・・。私たちは覚悟を決めて夜を明かした。そんな日々の中、これまで味わったことのない恐怖が全身を覆っていた。
ここで精神障害者として緊急対策をお伝えしておきたい。①精神薬が手に入らない ②精神病、精神障害、精神薬に対する知識を持った者が周りにいない ③疲れ果ててコミュニケーションが取れない ④仮設住宅では高齢者、重度障害者が先に復興住宅に引っ越して行き「取り残され感」が募った。 ⑤眠る場所が無い、家が無いという不安に支配された。
1995年の震災時、行政はほとんど機能しなかった。「一小学校区に一つ溜まり場を」「地域生活支援センターを」という私たちの願いは、それ以前から無視されていた。現実に「あの時」機能したのは、多くはない小規模作業所であり、当事者会であり、溜まり場だった。
最後に、私はお陰で安定し、ヘルパーにボランティアにと充実した日々を送っている。東日本大震災の被災者の皆様が安住の地につかれるよう、願ってやみません。
【この文章は、1/16~17 深夜、NHK第一ラジオ「ともに迎えたい阪神・淡路大震災20年」の番組で朗読されたものです。高瀬さんのご了解により今ニュースに転載させていただきました。】
2月 1, 2015