資料集

2010年7月 障害者解放講座「兵庫における障害者運動」

第1回 障害者解放講座

兵庫における障害者運動~過去~現在~未来

-青い芝運動の軌跡から、現在~未来を考える-

日時:2010年7月11日(日) 午後1時30分~ 会場:西宮市総合福祉センター

主催 阪神障害者解放センター

 

パネラー

澤田隆司(兵庫青い芝の会 会長  神戸市在住)

福永年久(阪神障害者解放センター代表 障害者問題を考える兵庫県連絡会議代表)

長谷川良夫(元・全国青い芝の会副会長  滋賀県在住)

志智桂子(NPO法人阪神障害者人権ネットワーク理事  西宮市在住)

高田耕志(NPO法人らいふすけっと理事長  加古川市在住)

 

 

(第一部 兵庫青い芝の会 闘いの歴史)

(青い芝の会 前史)

1971年 「若草の会」に福永さん参加 その後、長谷川さんと「あじさいの会」結成し活動

「さよならCP」関西上映実行委員会結成

 

「・・・・私の35年間の障害者運動を振り返れば、最初は在宅障害者のサークル活動への参加。レクリェーションを通じて障害者同士の交流ばかり行った。在宅におればほとんど他人との人間関係はできない状況。レクリェーションに続き、皆が持っている要求を活動にしようと一人ひとりの障害者に聞いた。参加する障害者のほとんどが就学猶予免除、学校教育から見放された障害者ばかり。脳性マヒ者から教育を受けたい要求が上がり何とか実現しようと神戸市教育委員会に対して、サークルに月一回の教師派遣を要望したが、回答はなしのつぶて。ほとんどの障害者や学生は諦めてしまった。私はそのサークルを辞め他の会を作る事にした。要求闘争ができる会を作りたかった。養護学校高等部を卒業した脳性マヒ者と私と5,6人の大学生と会を作った。最初はもう一人の障害者が自立体験を行いたいと安アパートを借り、それも2階の部屋だったため、私はほとんど行く事は出来なかった。会のメンバーがお金を出し合い維持した。3か月ほど続けていたが、もう一人の脳性マヒ者が市役所の公務員として働きたいということで、神戸市の試験会場を点検し、その障害者が足でしか字がかけなかったので、試験会場に畳を敷き、試験が受けられるように交渉しました。要求が通り畳を敷いての受験することができました。」(福永年久)

 

1972年 自立障害者集団姫路「ぐるーぷ・りぼん」結成

 

※「1971年、映画監督の原一男が神奈川青い芝の会の活動を映像化した『さよならCP』の上映運動が、全国各地で取り組まれた。関西での上映運動を行う中で、姫路の書写養護学校の卒業生が出会い、姫路での障害者グループとして、『グループ・りぼん』が結成された。」

 

1973年 自立障害者集団神戸「ぐるーぷ・りぼん」結成  「カニは横に歩く」製作開始

長谷川さん、成人式に障害者が参加できないことを告発

長谷川さん、公務員採用試験に挑む

1974年 福永さん、夜間中学に運動の末、入学

 

「私自身は就学猶予免除ということで教育現場から排除された。神戸にある友生養護学校にも『身辺処理ができない』ということで養護学校からさえも排除された。今から50年前のことである。その前に地域の神戸市立生田小学校に行ったが、校長が出てきて『こんな子どもは専門の学校がある』と言われ、友生養護学校に行ったが、そこも拒まれ、就学猶予免除になったのである。

私自身は教育的幻想があり、地域の子どもが普通学校に行けてるのに、なんで私だけが行けないのかということで毎日母親に腹立ちをぶつけ、ケンカばっかりしていた。たまりかねた母親は神戸の教育委員会に行き、『在宅障害者の家に教師を派遣してくれないか』という交渉を一人で行ない、全国で初めての訪問教育制度を作らせた。・・・・・(中略)・・・・・私は夜間中学に入りたいと思った。二十二歳の時である。長田にある丸山中学校に入学する運動をしようということで、教師を始め、会で運動をした。約二年間たたかい入学を勝ち取った。夜間中学に入って良かった事はいろんな事で教育を受ける事のできなかった健常者がおり、いろんな話を聞けた事である。被差別部落出身者や在日朝鮮・韓国人や船員の人たちから『教育を受けることができなかった』等の話を聞けたことである。私は夜間中学の経験しかないが障害者と健常者が学校の中で混じり合うという事は、お互いの話が聞けることで勉強になる。」(福永年久)

 

青い芝の会 結成~)

1973年4月28日 大阪青い芝の会 結成

(大阪青い芝の会 第二回大会議案書より)

「大阪青い芝の会は結成以来、障害者差別を許さない、を基調として多面的な運動を展開してきました。私たちは、障害者の現状が運動という言葉をなかなか生み出さない、という事を認識した上で学習を続けてきました。今までの与えられてきた価値観や、社会と障害者の関係をとらえ直すために、『CPとして生きる』を活用し、定期的に学習会を開きました。そして、私たちは次のような認識を勝ち取りました。

CP者の存在は、現在の社会の中ではあってはならない存在としてしか扱われていない、そして健全者と障害者との関係について言うならば、相互に相いれない価値観を持っており、これを、曖昧な形で考えることは、障害者自身を否定することになる。今、障害者の持たなければならないぺースと思想は否定され、健全者=絶対価値が全ての社会情況を構築し、障害者=劣悪者として、本来、障害者が持たなければならない諸権利を奪われている。作られた社会構造が私たちへの差別をより強化し、優生保護法に見られる様に、私たちの生存権すらおびやかしている。この現実を知れば知るほど、私たちCP者が生きていくためには、この所関係を根底からくつがえさなければならない事が分る。現在の社会を認める事は、障害者が死ぬ事と同じであるという認識を私たちは持ちます。私たち、障害者は、社会に向かって、個々の闘いの中で、障害者自身の思考性と文明を創りだす、そしてそれを武器として社会に切り込む事、それが私たち、闘う障害者の歴史的使命です。」

 

 

 

※(以下、志智桂子著 『蓮根放浪記』より引用)

・・・・・怒りを持てば、闘争心が湧いてくる。私は、本当に短い期間に色んな交渉と闘争を体験していった。

1974年4月関西で初めて、重度脳性麻痺者自身の手によって、殺される立場から優生思想を激しく問い、障害者差別を許さない自立と解放にむけた運動が確立され、大阪青い芝の会が誕生した。運動の活動方針に掲げられたのは、

 

一、兵庫県の母子保健の解体と優生保護法改悪阻止の闘い

二、養護学校義務化阻止の闘い

三、障害者自身の管理運営する施設づくり運動

四、脳性麻痺者の諸要求をかちとる

A、親の所得に関係なく、生活できる障害者年金の獲得

B、不当な現在の等級制度を変え、脳性麻痺に合うような等級制度を確立させる

C、重度脳性麻痺者の介護手当ての増額

D、全ての脳性麻痺者の医療保険の無料化

 

これらの闘いを進める為に、被差別統一戦線に積極的かつ主体的に参加し連帯していくことをめざした。また、仲間を募る為の在宅訪問活動や夏季キャンプ(ハッピーキャンプの原型)も行われた。関西での大きな闘争としては、この年の8月に兵庫県下の施設「宝塚希望の家」で障害者の去勢手術が行われたことに対して、青い芝の会として兵庫県民生部へ抗議。5日間の座り込み闘争で民生部長の謝罪書を勝ち取った。その翌年の4月、兵庫県衛生部に対して「不幸な子供の生まれない運動」への抗議、申し入れを行った。

そして1974年10月に兵庫青い芝の会が結成された。さらに大阪や兵庫で活動していた障害者達が各県に飛び、奈良青い芝の会、和歌山青い芝の会、京都青い芝の会が次々に結成されていった。これら各県の連合組織として、関西青い芝の会連合会が発足した。

この時期、「54年度養護学校義務化」に向けて、猛烈な勢いで養護学校が設置されていくが、その阻止運動の大きな闘いとしての、大阪寝屋川の「第八養護学校設置阻止」の闘争は、障害者、親、教師、一般労働者、学生、その他、たくさんの人達がかかわった。

 

 

1973年8月9日  宝塚市の入所施設「希望の家」で起こった去勢手術に対して、兵庫県民生部への抗議行動、5日間の座り込み闘争を展開し、民生部長の謝罪を勝ち取る(大阪青い芝の会)

 

1974年2月25日  兵庫県衛生部「不幸な子どもの生まれない」対策室に公開質問状提出

 

不幸な子どもの生まれない運動・優生保護法解体  兵庫県に対する百年戦争宣言!

兵庫県職員の皆さん!!

この兵庫県庁舎の中で、殺人行為を奨励するような事が県行政の一環として行われています。それは、県衛生部の不幸な子どもの生まれない運動と、その対策室なのです。障害者を不幸な存在として決めつける、そして羊水チェックを中心として、障害者を持つ恐れのある胎児を抹殺しているのです。これは、今生きている障害者をも、あってはならない存在とする論調に外なりません。明らかに、私たち障害者に対する行政の挑戦です。私たちは県当局に対して公開質問状を出しましたが、その県当局の回答は、「やはり障害者は不幸であるから生まれて来ぬ方が良い」というものでした。これは、今国会で改悪されようとする優生保護法の考え方と同じです。私たちは、私たちの生を守るために、怒りを持って団結し、不幸な子どもの生まれない運動と対策室の解体、優生保護法の廃絶を目指し、兵庫県に対して尽きることのない百年戦争を宣言するものです。

 

 

1974年10月6日 日本脳性マヒ者協会 兵庫青い芝の会結成大会 場所 姫路カトリック教会

(全体的な活動)

「兵庫県の障害者に対する差別的な政策を変更させる運動を行います。とりわけ、母子保健課に対する百年戦争を引き継ぎ、優生保護法解体の闘いとつなげ、世間にある優生思想と対決する運動を広げます。養護学校義務化に対する運動を行います。昭和53年度全員就学の名で、障害者は養護学校へとの動きがありますが、姫路にも新しい養護学校が作られようとしています。また、授産所や各施設でも多くの問題を抱えています。これらに対して、多くの面から検討を加え、差別を許さない立場から運動します。特に行政レベルでの運動が中心になるでしょう。関西各地の青い芝と共に、障害者自身の経営する施設作りに取り組みます。」

(規約・目的)

「本来あってはならない存在として扱われている脳性マヒ者の実情を十分に踏まえ、非人間的な差別と偏見と闘い、生活と権利、社会的地位の向上を図るために必要なあらゆる問題と要求を取り上げ、社会全体の問題との結合の中で運動する」

 

1975年1月  兵庫県へ重度障害者の生活保障を求め兵庫県へ要求。

その後、一年半以上にわたり兵庫県との闘いが継続する。

兵庫県知事 障害福祉課殿

要請書

私達、兵庫青い芝の会は、兵庫県内のCP者によって組織されている障害者団体です。私たちを取り巻く社会情況は、決して心よい状態であると言えるようなものではありません。障害者差別が充満し、私たちの生活を圧迫しています。行政による障害者福祉は大きく遅れ、少しある福祉行政は、県知事選挙でうたい上げられたものとは大違いで、優生思想に塗り固められた隔離を中心としたお情け福祉の域を出ていません。私達はこのような行政姿勢は、障害者が真に人間として尊ばれるために転換させなければならないすと考えます。行政の差別的誤まりは、はっきりと障害者の本当の心からの声を取り上げないことに原因があります。自分の要求を声にする術を奪われてきた障害者の現実に深い憤りを覚えますが、その事を良いことに行政がおざなりな福祉しか行わない事を、私達は決して許さないでしょう。

私達の多くの兄弟は、就学猶予、免除の教育からの切り捨てを受ける以外は、養護学校や施設での隔離差別教育を受けた後、生活の道を閉ざされた社会にほっぽり出され、在宅障害者としてひっそりと死を待つ生活を強要されています。私達にも、人間としてまっとうな生活をおくる権利があります。人間を図る尺度は生産にどれだけ参加できるかだけで図るべきではありません。もっと全人格的なものとして行政は認識するべきでしょう。

また、障害者のためにという美名のもとに建設される各種施設は、全く私達の人格を否定した所に成り立ち、あたかも、それが障害者にとって幸せな生活形態であるかのように宣伝されています。しかし、その実態は、効率のよい管理体制の基準のもとに運営されているのです。そこには、私達の自由な生活等、入り込む余地は全くありません。

施設の多くは、人里離れた所に作られ、在所生は、毎日毎日時間表によって縛られ、自分の時間や場を持つ事を拒否され、職員の気分次第で、いいように扱われる事によってのみ、かろうじて生きる事を許されているのです。景色と言えば山と田んぼばかり、社会の情勢とは無関係な別世界です。これが真っ当な人間の生活と言えるでしょうか。つまり、施設とは、障害者が全ての所で邪魔者扱いされ、生きる場を奪われ、仕方なくあきらめの気持ちで行く所であって、決して、行政当局の言うような、施設建設によって福祉が前進するのではなく、障害者の生活を保障する福祉行政の欠如の結果として、施設があるのです。これらは明確に、私達に対する差別です。

以上が私達の基本的な考え方ですが、この考えに立って、福祉行政を施策の中心に据えられている兵庫県当局に、私達は、次の事柄を要請し、私達の要求を実現すると同時に、兵庫県の障害者福祉施策の根本的転換を図られる事を忠告するとともに、兵庫県当局が全国の自治体の先頭を切る福祉立県となる栄誉を勝ち取られる事を心から望みます。

 

①  私達が生まれ育った所で生活できるような行政保障を確立して下さい

②  兵庫県独自に、在宅障害者が生活できる障害年金制度を作って下さい

③  とりあえず、障害者の生活領域を拡大する試みとして、澤田隆司をはじめとする重度障害者が自活するための(約10名)、小さな施設(もちろん、普通の人の生活領域の中で、プライバシーを守るために、アパート形式のもの)を早急に作って下さい。

④  その施設の管理運用権を私達に任せて下さい。

⑤  介護人の人選を私達に任せ、県職員として採用して下さい

⑥  以上に関する予算措置を早く作って下さい。

 

以上の事柄に関して、県当局の誠意ある回答を私達は望みます。なお、私たちの経験では、行政当局が予算がないと言い訳するのが当たり前のようですが、それは私達には関係のない事である事を御承知おき下さい。今まで放置してきたツケが今回ってきただけなのです。それはぜがひでも支払って貰わなければならない障害者の生き死にをかけた請求書と考えて下さい。  県当局の回答を一九七五年一月末日までに文章でお願いします。

以上

 

 

 

※(以下、『蓮根放浪記』より引用)

重度在宅障害者の要求を掲げて

1971年4月、厚生省は71年から75年までに39150人の施設入所者の定員増をかかげた「社会福祉施設整備緊急5ヶ年計画」を発表した。その翌年の72年9月、東京都府中療育センター闘争が在所生らの手によって闘われた。それまでの病院形態の施設から、在所生が人間らしく生活できる場へと、生活要求を掲げて東京都庁前での座り込みが闘われた。闘争は1年9ケ月にも及んだ。そして74年は「福祉元年」と称せられ、総評が初めて障害者団体と共闘した同年3月の国民春闘(結果的には障害者にはわずかな一時金で妥結)を経て、その年の8月、府中療育センターから出た障害者達の手によってかちとられた、全国で始めての「重度脳性マヒ者等介護人派遣制度」が始まった。

その影響を受けて、1975年1月兵庫でも、県に対して、重度在宅障害者が地域で生きていく為の、障害者自身が自主管理運営する施設作り要求交渉が、青い芝の会により始めて行なわれた。在宅障害者Sさん(兵庫青い芝会長)が、地域でどのように暮らし生きていくのか、東京都の例も参考にしながら一つ一つ要求項目を出し合い、みんなで真剣に討議を重ね交渉にのぞんだ。

兵庫県との始めての交渉は、みんなおそるおそるであったが、県側にすれば、とんでもない要求を突きつけられたという様子だった。それもそのはずで、障害者は養護学校や施設・コロニーにいて当たり前だとする福祉行政からすれば、行政施策の根幹を揺るがす要求だけに、県側もあわてふためいたのだろう。当時は、歩けて身辺処理ができる障害者しか地域で自立できなかったが、それでもそんな障害者の要求すらもなかなか認められていなかった。ましてや、24時間介護の必要な重度障害者の自立など夢のまた夢であった。そんな状況下で、Sさんの自立はなかなか前に進まなかった。それでも私達は、粘り強く交渉を重ねていった。

この頃、社会的にも親による障害児者殺し事件がひんぱんに起きていた。青い芝の会の在宅の仲間達も次々に亡くなっていた。それだけに、Sさんの声や要求に代表される重度在宅障害者の現実は緊迫し切実だった。それゆえ、県も拒むことができず一年間に20数回もの交渉に及んだ。そして1976年1月の和歌山センター闘争後、私達は更に具体的な施設要求のイメージを膨らませ図面まで作り用意して、同年6月24日、兵庫県との交渉に臨んでいった。

以下、その要求項目である。

 

一、貴職はこれまでの施策が差別ゆえに障害者の命を奪ってきたことを認め、また私達に対する裏切りと悪業の数々を反省し、私達に謝罪文を提出せよ。

二、今ある施設を改め障害者が自ら生きていく場とするべく「青い芝の会」の参加の下に、施設職員に対する行政指導を行え。

三、兵庫県におけるあらゆる障害者施策を検討する委員会に「青い芝の会」を参加させよ。

四、県下に建設中あるいは建設予定の施設は、計画を改めただちに建設を中止せよ。

五、近年施設の終身隔離化が行われている。これは差別を強めるものであり許せない。甲山学園青葉寮が成人施設化されようとしているが、ただちにとりやめよ。

六、私達が要求する「障害者自身が管理運営する施設」を神戸市街地に建設する具体的プランを早急に出し建設にとりかかること。

七、国から県にわたされるはずであった五千万円を拒んだ理由を説明し、障害者自身の要求実現のために用いるべくあらためて行政手続きをとれ。

 

しかし県側の姿勢は、一貫していた。「障害者は何もできるはずがない、誰かに動かされているのだ」とし、子供だましにもならない言い訳や説教をしてきた。私達が要求を出すことさえも認めない。殺される側の私達が、殺されることを許さないとつめよっても、「殺されるのが嫌なら、何も言うな。黙っとけ」と開き直る。このような県障害福祉課に対して、私達は更に根気強く交渉を重ねていったが、県側は私達の一年半にも及ぶ交渉を「もう話すことはない、これまでの交渉を白紙にもどす」との弾圧的な口調で開き直り、突然交渉を打ち切ってきた。その背景には、機動隊導入までいった和歌山センター闘争や、部落解放同盟による兵庫県政糾弾75日間座り込み闘争への弾圧があった。

私達は、何が何でもここで引き下がるわけにはいかなかった。私達の先にあるものは、家族から引き離され牢獄のような施設の中でひっそり死んでいくか、親や家族に気兼ねしながら死んでいくか、その二者択一の人生しかない。そのぎりぎりのところで具体的に打ち出された要求を、県側は蹴ったのである。私は許せなかった。

私達は、県行政施策の差別の実態を広く情宣するとともに、仲間との討論を深めながら、在宅障害者の仲間達とつながる為に、集中して在宅訪問を行っていった。在宅訪問の中で「闘わないといけないけど、親が恐いから行けない」「行きたいけど介護者がいない」「行けないけど、私のぶんもやってくれ」「何があっても、家で自立に向けて闘っていく」。そうした在宅障害者達の様々な声の中で、生きることの意味、闘うことの意味を問いながら、それぞれの思いの絡まりの中で闘う事を決意した。

 

兵庫県庁座り込み闘争突入へ

6月24日午後三時、兵庫青い芝の会会長のSさんを先頭に、会の30名(在宅障害者を含む)は怒りのにじんだ糾弾書「もう絶対許さない七項目の書」を県障害福祉課にたたきつけるべく、糾弾行動を開始した。しかし、私達の要求は一切聞こうとせず部長課長は姿を見せない。更に係長は「行政の差別を問い、糾弾し施策に反対する団体とは話をしない」「法律や秩序にみあわないものは作れないし、除外しなければならない。それが公務員というものだ。」「部外者は出て行け」と、暴言をはき差別発言を繰り返す。SさんやHさんが震える手で押さえる文字盤の文字すら読もうとはしない。言語障害の私の話をまともに聞こうとしない。あげくのはてに、仲間のほうに向かって反対に説教する。「あんたら同じ仲間なのに本人が苦しんで何度も言っているのに助けてやらないのか。わかっていたら代弁するのが仲間意識というものではないのか」「青い芝は仲間意識を大事にすると聞いていたが、そんなものだとは思わなかった」。ある障害者が叫ぶ。「障害者の声も聞けないで何が障害福祉課だ。そんな障害福祉課はつぶしたほうがましだ」。Sさんは右手を上げオーオーと怒り叫ぶ。文字盤をバタバタさせつめよる者。みんなそれぞれに、せいいっぱい怒りをぶちまけた。机の上に寝転がり手足をばたつかせるたびに、机の上のものがどんどん落ちていく。歩ける者は、県庁各階に抗議ビラをくばりにいく。障害福祉課内は緊迫した雰囲気に包まれていた。

その時、二~三人の女性障害者がトイレにいきたいと言い出した。係長は「あなたがたをここまで連れて来た介護人を呼べばいいじゃないか、慣れている者が介護するのが当然、私達にはまったく関係ない」。平然と言い放った。私達は再度介護人を要請する為に、となりの民生部にいったが、女性職員達は困った様子で、とまどいびびっているだけだった。 再三にわたり介護要請したが、職員達は電話番の方が大事らしく、ただただ机に向かって座っているだけだった。そして、軽度障害者に向かって「あんたが介護をやればいいじゃないか」と、詰め寄るありさまだ。やっとトイレ介護として二人の女性職員がきたが、うち一人は妊婦であったことから、障害福祉課の職員が障害者の方を指さして「障害者のトイレ介護をしたらあのような障害者が生まれるから、止めたほうがいい」と言ってとめ、その後男性職員三人が来て女性障害者の介護につきそった。障害者を一人の人格ある人間、女性としてみなすことなく物質的存在として扱う。このような県障害福祉課の差別行為は、差別の結果としてある施設の体質そのものだった。私たちは県障害福祉課への追求を更に強め、差別実態そのものを徹底糾弾していった。

25日午前9時前、係長がふいに沈黙を破るように言った。「仕事の始まる時間だから出ていってくれ」と、まるで幼子をなだめすかし追い払うように……。

午前十時、私達は六~七人でグループを作り、マイクを持ち、各階をシュプレヒコールしてまわった。つねに私達の後方には、私服警官がつきまとっていた。私達が、記者クラブ室、知事室を廻ろうとした時、職員と私服警官二十~三十人ぐらいに取り囲まれ、仲間はすり傷を負った。障害福祉課の机の上には、寝たきり障害者が最後まで踏ん張っていた。

この時、私ともう一人の仲間は極度の疲労のため喘息の発作を起こし、救急車で運ばれた。身体中で警報機がけたたましく鳴り響いていた。担架で運ばれる途中、私はなんともいえない感情に襲われ、突然自分を押さえることができなくなり、大声で泣きだしてしまった。障害福祉課は、私達を強制排除するよりも病院に送り込むほうが、自らの面目が保てるらしい。こうした障害福祉課のびくともしない傲慢さの前で、必死に抵抗を繰り返す仲間達。机、窓ガラス、壁には怒りの文字が書きつらねられ、床には食べかすが散らばる。障害福祉課の機能は完全に停止した。

後で聞いた話だが、午後四時すぎ、突然障害福祉課内に県会議員と名乗る男性が入ってきて、「このざまは何だ!!部屋から出ろ」と怒鳴り散らし、そばにいた女性障害者に暴力をふるったという。それを止めに入った、男性障害者を押し倒し怪我までさせ、私服警官や職員に取り押さえられどこかにいってしまったという。そして、仲間達の最後の演説がマイクを通して流れた瞬間、なだれ込むように私服警官と職員五十~六十人が、障害福祉課内に入ってきた。車椅子に乗っている者は、車椅子から降りて少しでも抵抗できるよう身構え、大声で怒り叫んだ。しかし瞬く間に、県庁玄関先まですんなり強制排除されてしまったのだ。

 

1975年 長谷川さん、澤田さん、神戸で自立生活を開始。

 

「我がハナバナシキ自立生活に至るまでの経過」(澤田隆司)

オレは、2年間リボンとして活動し、それから兵庫青い芝に入って活動を続け、3年が過ぎ去った。今、オレは自立生活をやっている。この10月で半年になるが、オレは、もっと早く自立するつもりでいたのである。なぜ、オレの自立が遅れたかと言うと。オレの友人であるK君が兵庫青い芝として最初に自立をやるべき人間であるのではないかと考えられていたのであるが、親の反対によって自立が困難な状況となり、ついには家に閉じ込められてしまい、彼の自立生活の話は中止になった。オレの場合、親にこれまで話ししていたから、大賀さんの方に具体的に話を持ち出し、自立生活を始める事になったのである。親から、「帰ってくるんやったらいつでも帰ってこい」と言われて出てきたのであるが、オレは帰らん、帰ってたまるか!!」(『障害者からの証言4 自立のあしおと』リボン社刊より)

 

「澤田さんの自立について」(兵庫ゴリラ)

いま、兵庫では、澤田さんの自立生活保障に取り組んでいる。澤田さんは兵青の会長、付き合いは、ゴリラを知った頃からで1年半ほどになる。文字盤を使って話すが、その文字を押さえる指の動きは、しばらくやっていると、かなり乱れが激しくなる。澤田さんは文章が読めない。文字を知らないというのではなくて、文字のつながりとして文章が分らないのだと思う。マンガを見ていても、ゴロゴロとかガリガリというのなら理解できるが、主語述語などが文字になってしまうと難しい。右手を支えると、何とか、しんどいけれど200m程なら歩くこともできる。性格から言うと、でしゃばりで傲慢なところがある。車の助手席に乗っている時、曲がり角まで来ると、急に右手を、右、左、真直ぐとやる。ま、車で混雑している市街地を走っている時でも、すぐ何かあると、文字盤を振り上げて、なんだかんだとやってくる。そんな時はこっちも意固地になって、その度にわざわざ車を止めて何度も話を聞くことがある。彼の場合は、「でしゃばり」と言うのが「人が良い!」ことにもつながっている。また、確かに、物事に対する注意力、集中力という点については難しいように思うが、人の話を素直に聞いてくれる。分らないときには、頭をかいて、つい一緒になって笑ってしまうこともある。運動を肉体の感覚で覚えるタイプなので、理詰めの話をすると翌日「昨日は頭が痛かった」ということにもなる。

去年のサマーキャンプ前後にかけて、毎日のように動き回って、目に見えてやせ細った。朝、迎えに行った車の中でも、目をしょぼしょぼさせて、ルームミラーに映る表情だけで「なんで、こんなにまでして・・・」と考えさせられた。その度に、一日も早く、運動の実体みたいなものを獲得しなければあかんと思い知らされた。こんなことに思い悩みつつ、家に送り帰した後、いとも簡単に「マタネ!」と文字盤でやられた次第だった。

介護とは何ぞや! ゴリラがやる自立生活保障とは何ぞや! 今の「親」の代わりであってはいかん。介護、自立生活を保障していく中で、ゴリラは何を考え、何を獲得していくのか。何故、自立生活を保障していくのか、それは在宅障害者自身の言葉の中に、ほとんどの意味が含まれている。

「・・・・親はいつまでも生きているわけではない。兄弟に押しつけようとするが、兄弟は面倒をみてくれても、面倒をみてくれる方がつらい。また、親兄弟と暮らしていると、主体性がなくなる。飯を食って糞をたれているだけが人間ではない。自分の考えを言っても『自分で働けないくせに文句を言うな』と言われる。おさえつけられてしまって、自分で責任を持ってできない・・・・」

今、在宅障害者が自分で生きていく場がない。施設で、「親」の手の内で、生かされてきたということだ。健全者が、障害者の存在を合理的という健全者のエゴによって、巨大コロニーの中で、食事、排便に至るまで、健全者のペースで管理してきたということだ。在宅障害者にとって、「生きる場」を地域社会に作るということだ。障害者に対する「むだ飯食い」とする発想こそ、健全者の感覚でしかない。・・・(中略)・・・「障害者はダメなもの、健全者は良いもの」という感覚では、とても澤田さんの介護は続かないと思う。そしてまた、ゴリラの運動としては、自立保障をいかなる形態で、どこまで計画的にやり抜くかという辺に、兵庫ゴリラの力量があると思う。

澤田さんの自立は、始まったばかりだけれども、・・・荷物を家から運び出した日には、何か見ているだけでも、本当に嬉しそうだった。・・・何としても、これは成功させなあかんし兵庫の運動に与える意味は大きい。また、ゴリラにとって、澤田さんの自立が、本当の所、「しんどいだけ」として感じられるなら、それは間違っていないだろうか。しかし、しんどいのは当たり前のこと。そこからしか自己変革は進まないというひとを確認しよう。」

 

 

 

1976年1月  和歌山センター闘争

福永さん、姫路で自立生活を開始

 

 

※(以下、『蓮根放浪記』より引用)

在宅訪問を通して

1976年1月、関西青い芝の会連合会の十六名の重度障害者達によって闘われた、和歌山福祉センター糾弾闘争は関西の障害者運動としては、機動隊導入にまで至ったもっとも激しく大きな闘争として内外に影響を与えた。この闘いは、また私自身の内部にある「健全者は良いもの、偉いもの」とする健全者幻想から私を解き放っていくきっかけとなった。さらには、福祉の偽善を徹底的に打ち砕いていくことにもなった。なによりこの闘争によって私が勝ち取ったものは、どんな困難な状況の時でも生活の場でしっかりと私を支えてくれるものとなった。この闘いについて書いていく。

 

当時の新聞の地方版の片隅に、小さくこう書かれていた。「和歌山青い芝の会会員だった藤田正弘さん鉄道自殺―障害を苦にして、線路わきに杖を並べ、線路上にねていた。頭蓋骨骨折で即死。急行きのくに14号、39分遅れた」。私は、この記事を見た時報道の視点を疑った。藤田さんが自殺に至った経過や背景が、何も書かれていない。列車が39分遅れた?人の生死にどう向き合っているのか。私は、怒りを覚えた。

ちょうどその頃、私は活動する仲間達に支えられ懸命に動いていた。そんな私にとって、藤田さんの自殺はあまりにも衝撃的だった。「藤田さんは、冷たく固いレールの上に身を横たえ、近づく列車の振動音をどんな思いで聞いていたのだろう。絶望の中、何もかも振り捨てて…」。怒りと悲しみの隙間から、藤田さんの声が聞こえてきた。

そんな中で、青い芝の会関西常任委員会緊急会議が、夜を徹して連日行われた。「一・二六和歌山センター闘争、福祉センターをぶっつぶせ  私達を殺す施設に用はない。死んでも闘うぞ」の決議がなされ、常任委員全員の決意が表明された。またこの事を全会員に口頭で伝え、藤田さんが何故自殺したのか、その意味をみんなで一緒に考え話し合い団結する為に、会員宅への在宅訪問が「グループゴリラ」(健全者の友人組織)の力を借りて行われた。「グループゴリラ」のメンバーとペアーを組み一緒に在宅訪問をするうちに、在宅重度障害者の現実がいかに悲惨で過酷なものであるかを、私は思い知らされた。

ある会員宅を訪問すると、最初は玄関先でにこやかに応対してくれていた家族が、私達が本人に会いたいというと、「そんなのは、うちにはいない。恥ずかしいから帰ってくれ」と急に態度が変わり、ドアーをぴしゃりと閉められ鍵をかけられた。私達は、ドアーの向こう側にいる障害者の息づかいを感じながら、小さな窓に向かって名前を呼び、「元気にしているか」と精一杯呼びかけた。

またある所では、親が出てきて「グループゴリラ」のメンバーとばかり話をして、障害を持つわが子の世話を一生懸命やっているのだと強調する。そして、ある仲間の障害者からは信じがたい話を耳にした。彼が訪問先で出会った障害者は、大きな農家の蔵の中にころがされていて、まわりには水が入ったおけと食べ物が盛られた洗面器いがい何もなかった、家畜同然の扱いを受けていた、と言う。

私は、暗く重苦しい気持ちを懸命に持ち上げ、施設を訪問した。門をくぐると、私達は危険人物かなにかのように、職員たちからじろじろ見られた。監視されているような息苦しさの中で、会員の在所者と会って話をしたが、相手はまわりばかりを気にして、表情は硬く重たい。緊張しているのだろう。私はその時、目の前にいる障害者に藤田さんを感じた。彼も、こうしてびくびくおどおどしながら、幼い時からずぅーとこの雰囲気の中にいたのだろう。そう思った瞬間、私の中で揺らいでいたものがふっきれた。

在宅訪問を続けるなかで、闘いに参加したいと希望する在宅障害者達が多数出てきた。家族が面倒みなければ、ひっそり死んでいくか、施設に入るしかない、自分達の厳しい現実に、「もうこれ以上仲間を殺させない」「殺されてたまるか!」と、いいしれぬほどの怒りがほとばしっていた。

 

1・26和歌山センター闘争

藤田さんは、幼い時から施設に入れられていた。母親は亡くなり父親は蒸発していなくなり兄弟はみんな結婚して、藤田さんの帰ってくるのを嫌がっていた。夏休みや冬休みなどには、おじいさんが用意してくれた四畳半のアパートで、一人寂しくラーメンを食べて暮らすしか仕方がなかった。施設いがい、彼の帰る場所はどこにもなかったのである。

そんな藤田さんが、仲間を求め和歌山青い芝の会に入った。街頭カンパや施設内での仲間を募る活動を精力的にやっていた。彼は、生前言っていた。「センターの中で、本当の事を言えば在所者にいじめられる。杖を盗られてしまう。CP者(脳性麻痺)が本当の事を言えば職員が馬鹿にする」。センターの中の彼の位置を、みごとにいいあてていた。藤田さんは、死ぬ数日前に和歌山青い芝の会の事務所を訪ねていた。しかし、その時仲間は活動の為出払って、事務所には誰もいなかった。藤田さんの想いを受け止めることができなかった。この事を思い返すたびに、仲間の一人は悔しがった。「もし、あの時事務所に誰かいたら…、藤田さんの想いを受け止めていたら…」。後悔の念と、青い芝運動の不十分さを思い知らされた。「施設はだめだ」と訴えてきたにもかかわらず、私達は施設にいた藤田さんと付き合いきれていなかった。みんなはそれぞれに自分を責めた。

私達に、どんな闘いができるのだろう。悩みながら、仲間達との議論を何度も積み重ねた結果、「グループゴリラ」をひとりもいれないで、障害者だけで責任を持ち闘い抜く覚悟で、最終的に十六名の闘争団が組まれた。和歌山青い芝の会を中心に据えて、関西青い芝の会連合会の闘争団16名は、1月26日午後1時40分、和歌山福祉センターに向けて、行動を開始した。

藤田さんを自殺に追い込んだ和歌山福祉センターの差別的仕組み・構造を追及し、謝罪せよとつめよったが、センター責任者は逃げ出し、職員は口々に「藤田君のこと、あんなにかわいがって面倒みてあげたのに」と、オロオロするばかりだった。らちの明かない話し合いに、ついに我慢の限界に達した私達は事務所を占拠した。

私は、自分のやれることを精一杯やり動いた。まず、バケツをかき集め、それから出入り口まで、机、いす、車椅子をゆっくり動かした。そして、歩けて力のある者は、それらを積み上げていった。水を汲み運ぶ者。窓という窓にテープを貼り付け、窓の鍵を針金でグルグル巻く者。みんなが、力いっぱい踏ん張って、今まで作ったこともないバリケードを作り上げた。そのバリケードを見ながら、私は魂の底から押し寄せてくるなんともいえない興奮と快感に浸っていた。遠い昔、幼な友達と無心で砂の町を作り上げたあの時の興奮と快感…。しかし、あの時とは違う。床には、書類という書類が散乱し、糞やしっこが垂れ流され、アンモニアの臭いが部屋中に充満している。目も開けられない状態だった。

窓の外は、だんだんと暗くなる。暗くなってくると、私の心に不安が押し寄せる。パトカーや護送車も増えている。ますます、恐怖で足が引きつり震えた。「わたし、どうなるのだろう…」一瞬、後悔の念が顔を覗かす。窓の外、夕風にひっそりなびく青い芝の旗を見ながら、人知れず涙がこぼれた。

26日の夕方近くに、警察の立会いのもと所長と闘争団代表との話し合いが提案されたが、みんなは全員で臨むという姿勢を変えなかった為、その話はなくなった。所長は、その間も一貫して「糾弾されるのは心外だ。謝罪文は書けない。私自身も障害を持っている。藤田君の気持ちはよくわかる。私達が、彼を差別するはずがない」と、自らの障害を前面に出し居直り一片の反省も示さない。責任者ともなると、ここまでふてぶてしくなれるものかと、あきれはてた。この傲慢さが藤田さんを殺したのだ。

職員の中にも障害を持つ者がいた。彼は職員であっても一~二万ぐらいの給料しかもらっていなかった。まわりに気づかいながら、一生懸命働いてきたのだろう。その職員の姿に、かつての自分を見た思いがした。まわりに認められたくて、朝から晩まで必死に働いて、身体を壊すまで働いて、自分より仕事のできない障害者仲間をあわれみ見下していた私もまた、藤田さんを死に追いやった無数の中のひとりだった。だからこそ、この闘争は自分に向けられた内なる差別との闘いでもあった。何が何でも、ここで踏ん張るしかなかった。

16名の闘争団の、休むひまなく繰り返すシュプレヒコール。集中し最後まであきらめない事をみんなで確認しあい、「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて…」というあの「およげたいやき君」を何度も何度も歌いながら、みんなで心を一つに重ねた。

突然、誰かが「ここで死のう」と言い出した。極度の疲労と空腹と寒さの中で、目前にあるのは死しかないと思った。みんなが、彼の言葉に素直に同調した。歩けない障害者は、机の脚に首を針金でくくりつけた。歩ける障害者は、身体や手足を針金でぐるぐるまきにした。私は、細い手足にじりじりくい込んでくる痛みを必死にこらえながら、「これでも、私達を力で排除するのか!」腹の底から搾り出すように、声を荒立てわめきちらした。この死に物狂いの叫びは、窓の外に群がる人達の心にどんなふうに届いたのか。茶の間で、テレビを見る人達の目にどんなふうに映ったのか。

私の体内にしみ込んだ汗や涙、糞とアンモニアの臭気に満ちた一瞬一瞬の叫びは、家畜同然の扱いをされてきた在宅重度障害者の叫びに通じる。施設から出たくても出ることができなかった藤田さんの無念の叫びにも通じる。そして、闇の中で人知れず殺されゆく者たちの叫びにも通じている。救われたい為に、必死で叫び、闘う。私は、青い芝思想の中の「悪人正機」の言葉を思い出した。この世にあってはならない者と刻印された者達の、救われんとする必死の叫び。

時間がたつほどに、針金が皮膚に喰いこみ血がにじむ。もう私の頭には、何もなかった。最後の抵抗とばかりに、自分の指を切り、壁に血筆する者、スプレー、マジック、墨などで、スローガンを書きなぐる者、めちゃめちゃ、ぐちゃぐちゃな、まさに地獄絵さながらだった。「要求貫徹まで一歩たりとも引かないぞ!」何度も何度も、最後まであきらめないことを自分に言い聞かせ、仲間達とともに闘った。

27日の朝まで、センター責任者、県当局責任者との話し合いを何度も要求したが、センター責任者や職員達の弾圧的で傲慢なふてぶてしさは、ひどくなるばかりだった。私達の死に物狂いの叫びの前で、恐怖する偽善者たちの面の皮が剥がれていくのを、私はしっかりと見届けた。これが、福祉の正体である。

27日昼頃、私達に食べ物が差し入れられた。その後、機動隊や護送車はますます増え続けた。異様なあわただしさの中で、私の身体はこわばり、根性なしの心はびびっていた。みんなと一緒なんだと思い返し踏ん張った。午後二時突然ドアーや窓をけやぶって、完全武装した機動隊が盾をかまえ突入してきた。私達は、機動隊めがけて消火器をふきつけ最後まで抵抗したが、あっというまもなく、一人に五~六人の機動隊が囲み、毛布でぐるぐるまきにされ、ものの七分ぐらいであっけなく排除されてしまった。

記者団のものものしいカメラのフラッシュを浴びながら、群がる人の中を通り抜け、あっけなく護送車に詰め込まれた。機動隊員らは口々に「こんなことしたくない。県側もここまでせんでもいいのに」「みてられない」と私達を哀れんだ。

向かう先は、警察署とばかり思っていたが、私達は青い芝の事務所に「丁寧に保護」された。「尻の始末も自分でできない重度障害者を捕まえても、世話が大変なだけなんやな、捕まえる価値さえもない存在なのか」。私は愕然と打ちのめされた。悔しさを通り越し、無力感が身体中に押し寄せてきた。仲間の一人が言った。「私達の入る牢獄は、やっぱり施設や」。たまらなく、その言葉が身にしみた。

 

 

 

1976年8月   全国障害者解放運動連絡会議(全障連)、大阪市立大学にて結成大会

1977年2月   養護学校義務化阻止全関西共闘会議結成

1977年4月   川崎市バス闘争

養護学校義務化阻止全国総決起集会  文部省闘争

1978年3月   兵庫青い芝の会、「自立障害者友人組織兵庫グループゴリラ」の解散を決定

 

 

 

※(以下、『蓮根放浪記』より引用)

こころの共同体を求めて

関西では「さようならCP」上映会が契機となり、また府中療育センター闘争の影響もあって、1973年5月、グループ・リボン姫路、神戸、大阪が結成され、これと併行して、1973年1月大阪、1974年6月兵庫、同年7月和歌山に、健全者友人組織として正式に関西グループ・ゴリラが誕生した。ゴリラは、1970年前後の全共闘運動の終焉をさかいに、その流れをくむ人達が加わっていた。この時期、グループ・リボンの障害者達が自ら作った映画「カニは横に歩く」が大きな反響を呼び、障害者が街に出ようという運動が関西で始まった。その運動を担っていく上で、グループ・ゴリラの存在は非常に大きかった。

その頃、東京から青い芝の人達がくることで、関西にも青い芝の会を作ろうという動きがではじめ、各都道府県に青い芝が作られてゆき、青い芝の活動は和歌山センター闘争をさかいにしてその後、兵庫県庁座り込み闘争、54年度養護学校義務化阻止闘争、川崎バス闘争、そして数々の行政闘争へと続いていった。

また1974年、大阪の第八養護学校建設に反対して、関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この二団体と八木下浩一氏が全国的な組織の必要性を訴えビラを配布。そして同年12月、全国代表者会議を開き準備会発足を決定し、全国代表幹事に横塚氏、事務局長に楠氏を選出し、1975年に七回の全国幹事会を開き、1976年8月大阪市立大学にて、「全国障害者解放運動連絡会議」の結成大会をもって正式に発足した。それは、障害者運動の歴史において画期的な出来事だった。

こういった運動の大きな流れの中にあって、1975年2月、第二回全国青い芝の会代表者大会で、青い芝の会主導の下、青い芝の会と共闘する健全者集団の全国組織結成の提起がなされ、翌年四月に全国健全者協会が誕生した。ここに集った人達の多くは、各大学の障害者解放研究会に関わる学生であったり、労働運動に関わる労働者であったりしたが、その中でもボランティア的な考えの人達は、自然と組織から離れていった。

一方闘争が激化し動きが活発になればなるほど、組織的な内部矛盾も噴出し始め、健全者組織から数々の批判が青い芝に向けられた。介護者として日常的に重度脳性マヒ者の介護に入る中ででてくる、健全者からの発言は、「青い芝主催としては全くの計画性のなさにはあきれてしまう、問題にぶつかると社会性のなさを武器として逃げる」、「計画性も、話し合いも十分にされない行動は、健全者として労働者としてやりきれなくなってしまう」(障害者差別を許さない全国健全者機関紙より)といったものであった。何故、このような事が言われたのか。

実際、彼らが介護者として重度脳性マヒ者の生活介護に入ると、色んな出来事に遭遇する。たとえば、介護中に介護者の不慣れで身体事故、怪我などが起こる場合がある。介護者の思い込みや会話の先取りやペースの違いにより、行き違いやずれなどが頻繁に起こる。そしてまた身体介護を伴う場合に、重度脳性マヒ者から「健全者は障害者の手足なんだから、介護するのは当たり前」とよく言われたが、私にはその言葉の意味が十分理解できていなかった。私自身がまだまだ脳性マヒ者の位置に立てていなかったのである。それが分かってきたのは、彼らとの付き合いの中であった。同時に自分の心の中にあるものを探っていくうちに、私の身体に常につきまとっている、負い目や羞恥心や色々な否定感情に気がついた。そうだ、重度障害者も私と同じなんだ!と思った瞬間、彼らの心が、生活が見えてきたのだった。

彼らは、二十四時間毎日毎日見ず知らずの何者かもわからない他人が、いれかわりたちかわり生活介護に入り、自分の身体を見たり触れたりするのである。ものすごいストレス!普通の生活からは考えられないし、想像もつかない。また介護者をつなぎ止める為に、おべんちゃらのひとつも言わないといけない。自立生活とは、そういうストレスの連続である。そして、それは在宅であれ施設であれ同じである。重度脳性マヒ者として生き続けるかぎり、しかたのないことかもしれない。がしかし、それにしても、毎日健全者の自由に動く手足やまっすぐ伸びた身体をいつも傍に見ていると、自己を否定したくもなるし、幻想の一つも抱きたくもなる。ときには死の恐怖すら感じてしまう。彼らが、それらを断ち切り生き抜いていくためには、「すべての健全者が介護者である」とすることで、「健全者を自分の手足として使いきる」という実際不可能に近いことを深く思い込み、少しでもストレスの重圧から自らの「心」を守っていく必要性があったのだろう。

両者の間に生じる、不満やストレスや行き違いなどを解消する方法として、ほとんどの介護者は「○○のために、必要なことだからやっている」というふうに、理念や目的を持って自分を納得させ介護に入ってくるが、そこは個人レベルに任されていたから、感情が入るとなかなかむずかしく、介護者は自己犠牲を迫られるか、もしくは自らの主張を正当化し責任転嫁するかのどちらかで、常に対立か離脱を繰り返し、介護者の絶対的な慢性的な不足があった。しかし一方で、自らの理念や目的にそぐわない介護、たとえば在宅障害者との、映画、買い物といった、おつきあいに流れがちな介護を否定する者もいた。在宅訪問などを通して健全者=介護者は、重度在宅障害者をどう見ていたのだろう。

そして、あのもっとも激しかった和歌山センター闘争のあと、健全者が言ったのは「センターに座り込んだのは幽霊だった」「我々が加わっていたら、様相は変わっていただろう」「青い芝の役員の中で、闘争に参加出来る状況にありながら、個人的理由で参加しなかった役員に対して 単に青い芝内部だけの責任であったか 共に闘う健全者側にも、このような会員を許してきた事に責任はなかったか」(障害者差別を許さない全国健全者機関紙より)であった。和歌山センター闘争によって、健全者と障害者の闘争スタイルの決定的な違いがあからさまになった時、彼らは座り込んだ障害者達を「幽霊」と言い、「もし我々が加わっていたら」と言い、青い芝の会に介入しようとした。

彼らにとって、この十五名の障害者達は何だったのか。どう認識していたのか。和歌山センター闘争に加わった十五名の重度障害者達のほとんどは、介護者がいないと何もできずうんこやしっこの垂れ流し状態で生命すら危うい。そして養護学校や就学猶予免除で学校にすら行けず、社会の片隅でひっそり息をひそめて生き延びてきたのである。そんな彼らが、健全者の想像をはるかにこえた行動力でもって、最後の最後まであきらめることなく国の力の象徴としてある機動隊導入までを闘いぬいたのは、それだけ重度障害者の日常がたえず厳しい死と直面していたからである。

和歌山センター闘争は、日常に潜む死への恐怖、少しでもそこから逃れたい、少しでも人間らしく生きたい、そんな必死の叫びだった。施設に入っている者は、家族の介護の負担を少しでも軽くしようと自ら入っていく者もいれば、入れられる者もいる。いずれであれ、施設という狭い空間の中では、ともすれば職員や在所者のストレスの矛先がいつ自分に向くか、相手の顔色を伺いながら暮らすのが日常である。そこでは子宮摘出や断種すら平然と行われる。そんな施設から出たいといじめられながらも必死で叫び続け、絶望のはてに電車に身を投じた仲間の無念さに自分達を重ね、私たちは闘った。

在宅の者は、家族一人ひとりのストレスの中に潜む殺意がいつ自分にむくかその影におびえながら、介護がなければ何もできない自分達に、犬猫同然の扱いを受けた在宅の仲間の日常の恐怖を重ね、私たちは闘った。

病気になっても、わけのわからない障害者としてあしらわれ、治療すら満足に受けられない薬づけの日々の中で、身体も心もどんどん病んで悪くなっていく、そんな医療の怖さを身を持って知っている仲間の苦痛を自分達に重ね、私たちは闘った。

かろうじて働ける者は、ひたすら頑張ったすえに身体を壊し、職場から追われ、どこにも行き場のない不安に身を震わしながら、低賃金でひたすら今を頑張り続けるしかない仲間のしんどさを自分達に重ね、私たちは闘った。

悔しくても小さな声すら上げられなかった者達の日常。そこに潜む、強者の論理や傲慢さや上から下を見下ろす視線、押さえ込まれたときに感じるたまらないほどの息苦しさ、冷気をおびて迫ってくる暴言の一つ一つに身を切り裂かれる苦痛と恐怖、それらが私たちの内で渦巻く怒りとなり雄たけびとなり闘いへと、私たち自身を向かわせたのである。そんな私たちの死に物狂いの叫ぶ姿を、彼らは「幽霊」だといったのである。

彼らは、青い芝の障害者をどう見ていたのだろう。そして、彼らは何を得ようとして、何を知ろうとして、私たちのところにやってきたのだろうか。

私は、横塚氏の言う「心の共同体」ということばが好きである。それは、遥かかなたにあるものなのか、それともすぐ近くにあるものなのか……それを探し求めて、私たち障害者は心底深く彷徨い続けているのである。

 

 

 

 

1979年 尼崎市、神戸市などで就学闘争始まる   兵庫「みんなでキャンプ」始まる

1980年 就学闘争を闘う親らにより「障害者の生活と教育を創り出す会」結成

灘神戸生協の機関誌上での差別マンガに対する糾弾行動

1981年 「障害者問題を考える兵庫県連絡会議」結成

兵庫青い芝、「みんなでキャンプ」を離脱し「ハッピーキャンプ」始まる

姫路・加古川を中心に「障害者と健常者の日常を語ろう会」始まる

兵庫県社会福祉協議会の福祉副読本の差別的記載に対する抗議

 

1982年 県会議員井上安友差別発言に対する糾弾行動

 

抗議文

1982年8月19日

自由民主党兵庫県連様

 

我々は、日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会兵庫青い芝の会です。我々の組織は22都道府県にあり、25年間の歴史を経過している。その間の主な闘いとして、脳性マヒ者の自立と解放を掲げ、生存権の確立、優生思想との闘い、70年代に優生保護法改悪阻止といった闘いを続け、障害者差別を糾弾し続けてきました。

8月17日の、兵庫県文教常任委員会における井上安友議員の「知恵遅れの子が学校の池で水死して、なぜ1500万円もの賠償金を支払わなければならないのか。生きていても国の世話になるだけ。親が金を持って来てもいいぐらいだ」という差別発言は、障害者の生存権を否定し、無価値な人間として見、人間の価値を「生産」をあげられる人間のみ価値があるとし、本来の人間の価値を無視したものであり、許す事の出来ない発言である。

1500万円のうち、県からわずか360万円しか出されず、人間の死の金額としては非常に安すぎるものである。それに対して、井上議員は「・・・逆に親から何千万円もらってもいいぐらいだ」という発言をしました。これは何を意味するのでしょう。それは、障害者はこの世にあってはならない、即座に抹殺せよという危険な思想、まるでナチスドイツのヒットラーのような考え方である。このような議員が存在すること自体、自民党の考え方を象徴したものであるとみなされても仕方がないと考えます。井上議員の危険きわまりない思想を、我々は断固として糾弾し、このような考え方を持った議員がいる兵庫県議会の姿勢を問うものです。

我々としては、この井上議員の差別発言を、我々障害者全てに対する挑戦状だととらえ、障害者の生命をかけて闘いを繰り広げるものです。

さらに、井上議員の釈明が新聞紙上に載っているが、自分が何者だという奢り高ぶりがあり、「クギを刺さなければならない」という発言は何を物語っているのでしょうか。我々は、井上安友議員に逆にクギを刺すものである。このような観点から、我々は以下のことを要求する。

 

一  井上議員は直ちに文書で釈明せよ

一  自民党兵庫県連は、井上議員を処分せよ

一  県議会での発言を取り消せ  また、障害者解放に立って釈明せよ

一  青い芝の会と今後話し合いを行え

 

(※ 新聞記事等資料 参照)

 

 

1983年 姫路で「ひびき共同作業所」設立

(尼崎で、「みんなの労働文化センター」設立。作業所補助金の要求を障問連が支援)

1984年 JR播但線・野里駅高架化に対する抗議

「みんなでキャンプ」と「ハッピーキャンプ」が合流し「みんなでハッピーキャンプ」

1985年 神戸市バスの車椅子乗車拒否に対して抗議行動・・・・(新聞記事等資料)

新聞報道により、澤田さん・高田さん宅に投書・・・・(資料参照)

(神戸で「えんぴつの家」設立される)

1988年 西宮に「阪神障害者解放センター」設立

青い芝の会事務所との兼用  優生手術の申請書配布問題など取り組む

市立芦屋高校の進学保障制度打ち切りにより障害児の進路が奪われ芦屋市教委に抗議

1989年 澤田さん、二次障害が悪化する

1990年 障害者殺し事件に対して神戸市行政糾弾行動 阪神間で本格化した障害児の高校進学闘争に支援

青い芝の会関西・北陸ブロック主催で「脳死・臓器移植を考えるシンポジウム」

1992年 神戸に「六甲デイケアセンター」設立

市立尼崎高校で障害児不合格事件について尼崎市教委、校長への抗議行動

1993年 自立生活センター「Beすけっと」設立 澤田さん代表に就任

1994年 加古川で障害児の普通学校受け入れ拒否を契機に「加古川の障害児教育を考える会」が発足。

代表に高田さん就任。

1995年 阪神大震災  三矢英子さん亡くなる

1996年 任意団体「らいふすけっと」設立。その後NPO法人取得。代表に高田さん就任

1997年 福永さん脳梗塞で倒れる   兵庫青い芝の会、実質活動を中断

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