事務局より

編集後記

東京新聞7/23の記事で、相模原事件の被告から新聞社宛てに6月に3通の手紙が送られてきていたことが報じられていました。「「私の考える『意思疎通がとれる』とは、正確に自己紹介をすることができる人間」と定義」とありました。この定義は、現代の英米圏で語られる主流の生命倫理学と同型であることに非常に衝撃を受けました。また、こうした言説を批判して東大准教授の熊谷晋一郎氏は「価値があろうがなかろうが生きていてよい、それが人権なんだと認め合える社会にしないといけない」と言いますが、順番が逆なのではないか、つまり「生きていてよいかどうかに、価値を問う必要などないのではないか」と思いました。「生きていてよい」の前になんらかの価値を想定するのは変ではないかと私は思います。もっと言えば「生きていてよい」というのは「認め合う」ものなどではなく、それ抜きで社会は成り立たない掟のようなものだと思います。そして、それを支える法的な基盤に人権がある、これが筋道なのではないのかと思っています。みなさんはどう考えますか?

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