【障害者の「活躍」】 東京都女性活躍推進大賞に重度障害者の海老原さん
野崎泰伸(障問連事務局)
1月18日、東京都が女性の活躍推進に取り組む個人・団体に送る「都女性活躍推進大賞」の贈呈式を行いました。大賞に4つの企業・団体と個人ひとりが選ばれましたが、そのうちのひとりが重度の障害を持つ海老原宏美さんであり、贈呈式には小池東京都知事の秘書に3時間かけて書いたという5枚の手紙が手渡されました。
海老原さんの文章は、ご自身のような重度障害者が社会においていかなる存在価値を持つのかについて書かれたものです。
現状においては、介護力の不足によって、重度障害者が入所施設等に隔離され、障害者権利条約に反するような状況や、障害をもつ生に対する否定的な優生主義的イメージが社会の価値観として蔓延している状況があることを説明されます。
そのような状況において、重度障害者の存在価値とは何か、海老原さんは、価値を形成する過程に戻って考えます。縄文杉や富士山は、単なる木であり、単なる土の盛り上がりですが、人間という生物は、そこに価値を見出すのです。つまり、価値とは、それじたいの区別や優劣などではなく、人間が作り上げたり見出したりするものだろうと、海老原さんは言うのです。
そこで改めて、海老原さんは重度障害者の存在価値について、次のように言います。すなわち、重度障害者の存在価値とは何かについて考える機会を周りに与え、存在価値を見出す人が広がることで、誰もが安心して「在る」ことができる地域を作っていけるようになる、そのことこそが、重度障害者の存在価値ではないかと、海老原さんは述べています。「重度障害者は、ただ存在しているだけで活躍している」のです。
海老原さんのこの文章は、努力して結果を出したり、何かに貢献したりすることではなく、重度障害者にとっては、ただ生きていることで「活躍」していると言えるのではないか、そうした人間観・社会観まで問うたものではないでしょうか。何かを「なす」こと中心の社会から、そこに「ある」ことを中心に据える社会への転換を示唆するものとして読めるでしょう。
海老原さんの許可を得ましたので、以下に全文を掲載させていただきます。ぜひお読みください。
小池百合子都知事さま
この度は、女性活躍推進大賞を賜り、大変恐縮しております。
普段、自分が活躍できているかどうかなど、まったく意識したこともなく、ご推薦いただけることになった時点でも、私の活動がこんなに評価いただけるとは夢にも思っておりませんでした。
ありがとうございます。
重度の、進行性の障害を生まれ持った私の使命は、華々しく活躍するパラリンピック選手や、個性的な芸術活動をおこなったり、起業したりする障害者のようにスポットライトを浴びて社会に広く知られるようなことのない、もっと重度の障害者の、社会における存在価値を、確立することだと思っています。
世の中には、私を含め、人工呼吸器や経管栄養を命綱にしている人、言葉でのコミュニケーションが取れない人、意識レベルが確認できない人など、重度の障害を持つ人がたくさんいます。
そういう方達の多くが、家族での介護に限界を迎え、高度の介助スキルを持つ人的資源が地域に不足していることで、入所施設や長期療養病院に追いやられています。
これは、日本も批准した障害者権利条約の、「障害があることによって特定の生活様式を強制されてはならない」という条項に反しています。
介護力の不足だけではありません。
「呼吸器や胃ろうのような延命を受けてまで生きていたいなんて、ワガママなのでは?」
「寝たきりの植物人間を生かすために自分たちの税金が垂れ流されてるなんて…」
「あんな状態になってまで生かされているなんて本人にとって可哀想」
などの社会の価値観が、私たちを、地域の隅へ隅へと追いやっていくのです。
私たち、重度障害者の存在価値とはなんでしょうか。
私は、「価値のある人間と価値のない人間」という区別や優劣、順位があるとは思いません。価値は、人が創り上げるもの、見出すものだと信じているのです。
樹齢千年の縄文杉を見て、ただの木でしかないのに感動したり、真冬、青い空に映える真っ白な富士山を見て、ただの盛り上がった土の塊にすぎないのに清々しい気持ちになれたりと、価値を創り出しているのは人の心です。
これは、唯一人間にのみ与えられた能力だと思います。
そう考えるとき、呼吸器で呼吸をし、管で栄養を摂り、ただ目の前に存在しているだけの人間をも、ちゃんと人間として受け入れ、その尊厳に向き合い、守っていくことも、人間だからこそできるはずです。
それができなくなった時、相模原であったような、悲惨な事件が起こってしまうのではないでしょうか。
あるのは、「価値のある人間・ない人間」という区別ではなく、「価値を見出せる能力のある人間・ない人間」という区別です。
私たち、重度障害者の存在価値とはなんでしょう。
重度障害者が地域の、人目につく場所にいるからこそ、「彼らの存在価値とはなんだろう?」と周囲の人たちに考える機会を与え、彼らの存在価値を見出す人々が生まれ、広がり、誰もが安心して「在る」ことができる豊かな地域になっていくのではないでしょうか?
重度障害者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、価値観を広げる機会自体を社会が失うことになります。
それこそが、重度障害者の存在価値ではないでしょうか?
重度障害者は、ただ存在しているだけで活躍しているとは言えませんでしょうか?
私は、そういう意味で、重度障害者の活躍の場を、社会の中に作っていきたいのです。
どんな重度の障害者でも、安心して地域に在ることができる社会にしたいのです。
ここ近年、国に尊厳死法制化の動きがあったり、出生前診断で障害胎児の中絶率が95%を超える現状があったり、「障害児を減らしていきたい」という趣旨の某県教委の発言や、「自分だったら社会保障費削減のために尊厳死を選択する」という国会議員の発言があったりと、ますます私たち重度障害者の生きにくい風潮が強くなっています。
小池知事におかれましては、社会にとって生産性のある人間、もしくは人々に感動を与えられる人間だけではなく、ただ、そこに静かに存在するだけの人間にも尊厳を見出し、全ての都民が社会参加できる都政を執行していただきたいと、心から願っております。
人間の価値に優劣をつけず、どんな人でも共に在ることを楽しめる豊かな東京都でありますように。
「都民ファースト」の「都民」に、私たち重度障害者も常に含まれておりますように。
最後になりましたが、小池知事都政のますますのご発展を、心からお祈り申し上げます。
長々と、大変失礼いたしました。
最後までお読みくださり、感謝申し上げます。
2017年1月18日 都民 海老原宏美
2月 3, 2017