差別問題一般

【特集】 戦争と障害者

今年は第二次世界大戦終結、アジア太平洋戦争における日本の敗北から70年、さまざまな「戦後70年」の報道がなされています。

しかしここでも、あまり語られない、忘れ去られてきたのが「障害者の戦中・戦後」ではないでしょうか。「70年だから」想起すべき、ということでもありませんが、戦中そして戦後を生き抜いてこられた障害者の先輩も、いつしか年を重ねられることになりました。ここで、先輩方が生きて来られた道を記憶し、声を記録しておくことには、たいへんな意味があるだろうと考えます。

さいわい、大阪の「ゆめ風基金」の牧口一二さんに、ご自身の戦争体験と、そこから現在安倍内閣が進める「積極的平和主義」「安全保障関連法案」について、障害者の立場からどのように評価するのかについての原稿をいただくことができました。

 

生死をさまよう壮絶な戦争体験ではないけれど

ゆめ風基金代表 牧口 一二

 

なんだかキナ臭い世相になってきた。敗戦後70年、平和(?)すぎたのだろうか。平和に過ぎたも足らぬもないけれど、「積極的平和主義」なんて言われると、つい、こんなふうにも言いたくなる。人間にもさまざまな人が居て当然といえば、そうなんだけど、障害者ほど戦争ギライな人類は他にないと思う。なぜって、戦争になれば「役立たず」と蔑まれ、「ムダメシ食い」と責められる。兵隊(戦力)になれないから「役立たず」は、むしろ人殺しをしなくて済むことがうれしく大歓迎だが、人間社会はすべてよしとはなかなかいかない。戦力になれないゆえに「ムダメシ食い」と言われるのはチトつらい、いや、生きておれなくなるから大いに困る。

いまは2015年、第2次世界大戦は1939年9月のドイツによるポーランド侵入といわれるから、その時に生まれた子もいまは75歳。ほんの少しでも戦時中を生きてきた障害者もいまは年老いて少数者の中の少数派。ボクは大戦への導火線になったといわれる1937年の中国・盧溝橋事件(7月)の8月に生まれ、その年の12月にあの南京大虐殺、日本国内では「勝った勝った」と提灯行列が行われたそうな。そんな巡り合わせで世に生を受けたボクなのだ。ほぼ1年後のまだ伝い歩きもできていない頃にポリオ(脊髄性小児まひ)にかかり、二本足では歩けなくなった。ゆえに敗戦時は8歳(そうそう、6歳のとき母に背負われて小学校へ出向いたが、「空襲の時に危ないから」と就学猶予の扱いに)で、戦争の何たるかは何も分からぬまま、それでも鮮明に覚えていることをささやかながら書いてみようと思う。

 

幼い頃、ボクは大阪市天王寺区勝山通三丁目(寺田町あたり)で生まれた(出生はほど近くの産院)。2階建て長屋で前は赤レンガの路地、その入り口がボクんチで、5、6軒並んでいたと思う。あまり外に出られないボクは、窓の格子から路地を眺めて過ごすのが日課だった。たまに這い出して路地で遊ぶことがあっても「大通りに出てはダメ」とオフクロに言われていた。空襲がだんだん激しくなり、それぞれの家が自分チ一階の畳をはがして、地下に防空壕を掘り(男手のない家は隣近所に頼んで)、一階の畳を地下に敷き、一階には鉄板を工面してきて敷いていた。いま思えば、あんな鉄板1枚で原発なんて防げるわけがない。だけど、当時の大人たちには原発の威力と放射能の恐ろしさなんぞ知る由もなかった。

ボクたち子どもは、それでも赤レンガの路地でローセキ遊び・石けり・缶けりなどで屈託なく遊んでいた。ときどき夢中になって路地から大通りに移動していて空襲警報のサイレン。そんな時、どこから現れたかオフクロが地面を這って夢中に遊ぶボクを小脇にかかえて我が家の防空壕に飛び込んだ。その素早かったこと。

ボクは地下の防空壕で過ごすことがだんだん多くなってきた。ラジオからの戦況を自分の役割りとばかりに「いま紀伊水道を敵機が⒋機、北上中」などと紀伊水道がどこにあるかも知らずに父や母に復唱していた。百貨店勤めの父そして母、2つ上の姉は小学生、3つ下の妹とボクの5人家族(11離れた弟はまだ形なし)の頃のことである。

大阪への空襲が激しくなり、いよいよ疎開しなければならなくなった。父は仕事から離れられず大阪に残り、姉は学校から集団疎開で奈良の吉野へ。40半ばの母と5歳の妹とボクの3人が疎開することになった。が、行く当てがない。結局、父の会社の同僚の親戚の知人の……そのまた知人という何の所縁もない福井県大野郡の庄屋さんチでお世話になった。大きな蔵で大蛇がどくろを巻いていて、池では蛙がよく鳴いている広いお家だった。与えられた部屋の鴨居から時々青大将がドサッと落ちてきてボクも真っ青。母は慣れない畑仕事に駆り出され、マムシを怖がっていた。

そんなこんなで、終戦の日を迎えた。その日その時、ボクは大広間の庭で砂遊びをしていた。と、近所の大人たちが次から次と大広間に集まってきた。座布団が並べられていく。何事が起ったかとボクはただならぬ気配を感じて様子をうかがった。やがて床の間の前に、ひときわ大きな厚い座布団が置かれた。お坊さんでも来るのかなと思っていたら、ナントそこに古びた木製のラジオが置かれたのだ。それが玉音放送の始まりだった。「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ……」、ボクは何のことかさっぱり分からなかった。けれど、大人たちはシクシク泣き始めた。やがて放送は終わり、人々は三々五々帰って行った。

縁側の傍らでじいっと眺めていたボクのところにオフクロがきて「日本が戦争に負けた」と呟いた。「どうなるの?」と尋ねると、「これから赤鬼と青鬼が上陸してきて、女と子どもから食べるんや」と言った。ボクは驚き戦いたが、母の前に立ちはだかって(立てないから「座りはだかって」かな)、先に食べられてやろうと覚悟した。とっさの決心だったので鮮明に覚えていて、以後も時々思い出し、そのたび母に「ほんとにそう思っていたのか、子どもに分かり易く赤鬼青鬼と言ったのか」と何度も何度も聞いたのだが、オフクロは「そんなこと言ったかな、忘れてしもた」としか言わない。「鬼畜米英」という言葉を知ったのは、ずい分あとになってのことだった。

われら3人、オヤジの待つ大阪に帰る日はあいにくの大雨。オフクロはボクを背中に縛り付け、片手で妹の手を握り、持てるだけのお米をもらって大野郡の庄屋さんの家を出て福井駅まで歩いた。「4里」と覚えているので16キロ。雨の田んぼの畦道を5歳だった妹はよくぞ歩き通したと思う。オフクロに手を引かれて黙ったまま歩き続けた。本来なら自分がオフクロに背負われたかっただろうに。兄は歩けないから仕方ないと思っていたのか。成人してからあの日のことを聞いてみても、彼女もまた「忘れてしもた」と言うばかり。思い出すのもイヤなのかもしれない。

とにかく福井駅に辿り着き大阪行きの列車に乗ることができた。復員軍人たちでぎっしり。でも子どものボクと妹は周りから乾パンなどをもらった。やっと大阪駅に着いて、父の勤める百貨店がある心斎橋まで運んでくれる輪タク(その頃は人力車だった)がない。オフクロがいくら金額を交渉してもダメだった。ところが「お米一升」と言ったとたん、態度が

ガラッと変わり、愛想よくボクたちを乗せてくれたのだ。金より米のほうが重要だった。

やっとこさ辿り着いた勝山通三丁目の我らの長屋は跡形もなく焼けていたらしい(ボクは連れて行ってもらえなかった)。疎開するとき大事にしていた物は地下の防空壕に埋めて逃げたのだが、焼け跡はどこがどうと区別が付かないほどグジャグジャに荒れて、とても掘り出せなかった、とのこと。で、豊中市岡町に住むオヤジの弟(叔父)のところで数か月お世話になり、空襲を免れた大阪市天王寺区餌差町(玉造・真田山の西側)木造2階建てのオヤジの会社の独身寮で、オフクロが独身社員たちの賄いを引き受ける条件で家族に六畳間が与えられた。まだ周辺は焼け野原が広がっていて、4年前の東北の津波に流された跡のテレビを見て、あの時の景色を思い出した。その寮でボクは若き男たちの酒癖のわるさを知り、マージャンを覚えた。そして9歳で「お待たせしました」と真田山小学校に迎えられた。

 

こうしたボクの8歳の戦争の記憶だけれど、よく聞く生死を分けた壮絶な戦争体験記には程遠い敗戦前後のささやかな体験である。家族は誰ひとり死ななかった。父が兵隊に取られなかったのはボク(障害者)が居たからだと近所でウワサになったこともあるが、その真偽は定かでない。父は勤めでは会社を守る立場を命じられ、町内では男の役割りを担っていたようだ。つまり、ごくごく普通の市民の暮らしだったと思う。でも市民を巻き込む戦争が始まったとたん、市民の暮らしは否応なく全てが戦争の流れに飲み込まれていく。抗う術がなくなってしまう。その時、障害者は……ということだ。

いま「抑止力」という言葉を耳にすることが多くなったが、おそらく殆どの障害者には発想できない「力」だと思う。それは強者の論理だからだ。力ある者が自分を正当化するためによく使う言葉が抑止力だ。障害者は抵抗できる何の手段も持たないで生きている。丸腰なのだ。国会で「丸腰の自衛隊員と武器を持つ自衛隊員、どちらがリスクが高いか」が議論され、安倍内閣は「関係ない」とか「そりゃあ武器を持つとリスクは低くなるでしょ」なんてノンキに答えていたが、撃たれる側のことに思いが至らないのだろうか。武器を持っていないと分かれば、そのほうこそ撃たれるリスクは少なくなるだろう。肝心なのは武器を持たないことを世界中に広く知ってもらうこと。持たない、使わない、作らないことだ。

自然災害においても障害者は助かろうと思えば他者に頼るしかない。「他者に頼る」はいかにも頼りなく情けなく聞こえるかもしれないが、じつは他者に頼り、他者を信じる生き方がもっとも強い生き方ではないかと考える。それは自分のみを考えるのではなく、つねに相手(他者)のことも考えながら生きることであり、障害者はいままでも、いまも、これからもそうやって生きてきた、ということである。

 

 

 

「戦後70年」、マスコミも少しではありますが、障害者の戦争体験を取り上げています。いくつかの記事やインターネットでの報道を抜粋して取り上げます。

 

■視覚障害者の戦争、朗読で描く 2日、京都で放送劇

京都新聞 2015年8月1日

http://kyoto-np.jp/sightseeing/article/20150801000119

「障害があるために役立たずの烙印(らくいん)を押された主人公が、「お国のために」と敵機の襲来を音で察知する防空監視哨員になる。自宅が強制建物疎開の対象となり、親戚宅に身を寄せることになったり、西陣空襲で母を亡くしたりと、京都の史実を踏まえて戦争の悲惨さを伝える」。

 

■障がい者の沖縄戦体験を新県史に 教育庁が聞き取り

琉球新報 2015年8月3日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-246681-storytopic-1.html

「戦中の障がい者をめぐっては、周辺から差別を受けていたことや、戦火から逃げる際に困難を極めたことが指摘されている。一方、当時の状況を語る人は限られており、記録としてはあまり残されてこなかった。新県史の編集では体験談の他に、日本軍が障がい者に対してどのような見方をしていたのかについて、聞き取りも含めた調査をしていくという。

また新県史では、戦争トラウマや心的外傷後ストレス障害(PTSD)についても盛り込む方針で、沖縄戦の爪痕を記録として残していく」。

 

圧巻だったのが次の記事のまとめサイトです。障害者、ハンセン病者、安楽死。戦時中の障害者差別、障害者の殺りくなど、障害のない人たちと比べても過酷な状況であったことがわかります。

 

■戦後70年 証言をつなぐ(西日本新聞記事のまとめ)

http://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2015/vol08/

 

さらに、日独において「有事」の際の障害者の状況が簡潔にまとめられているのが以下の記事です。その次の東京新聞の記事は、戦時下PTSDの問題にも触れています。

 

■語られてこなかった障害者の戦争体験 日本や独ナチスでも抑圧の歴史

The Page 2015.08.23 14:00

http://thepage.jp/detail/20150823-00000003-wordleaf

「障害を理由に殺されかけた事例もある。脳性小児まひで体に障害がある女性は、幼年時代、母親とともに満州から山口県に引き上げてきた。そこへ日本兵がやってきて「障害のある子供は有事の時に邪魔になるから殺せ」と母親に青酸カリを手渡したという。

戦争中、障害者は「穀潰し」呼ばわりされることもあった。右半身にマヒがある男性もその一人。障害のため、兵隊になって国のために戦えない。徴兵検査で不合格になり、「国家の米食い虫」と言われた」。

「当時のドイツでは、知的障害者や精神障害者をいかに効率的に殺すかを、ヒトラーや医師・科学者らで話し合い、ガス室が作られた。それがアウシュビッツの“リハーサル”になったともいわれる」。

「震災時にも、逃げ遅れる、置いて行かれる、情報が届かない、そういう状況が重なって障害者が命を落としている。被災地の避難所でも、医療機器がないと生きられない。しかし、そのためにみんなの貴重な電気を使えるか。また、発達障害のある子が声を上げてしまう。避難所では周囲から「眠れない」と言われ、居づらくなる。震災でも障害者は厳しい状況に置かれた。

戦争のような有事の際は、ともすると、国のためになるか、という「優先順位の社会」になりがちだ。そこでは、人間は平等であるという価値観が忘れ去られてしまう」。

 

■元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷

東京新聞 2015年8月28日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082802000121.html

「戦時中に精神障害と診断された兵員は、精神障害に対応する基幹病院だった国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に収容され、三八~四五年で一万四百人余に上った。この数は陸軍の一部にすぎず、症状が出ても臆病者や詐病扱いで制裁を浴びて収容されなかった場合も多いとみられる」。

「今後、安全保障関連法案が成立して米国の軍事行動に協力すると、「自衛隊でもおびただしい精神障害者が生じる」と懸念する」。

 

日本の学会や大学では、現下の安全保障関連法案に関する反対の声明が出されています。以下は障害学会が出した理事会声明文です。障害学会(理事会)としてこのような声明を出すのはこれがはじめてです。障害者の立場から、安全保障関連法案に反対するものになっています。

 

■安全保障関連法案の廃案を求める

障害学会理事会 2015.8.27

「障害学会は、従来の医学的視点ではなく、社会・文化の視点から障害を研究する障害学(Disability Studies)の発展・普及を目的とした研究組織である。安倍晋三内閣が今国会に上程している「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」及び「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」、いわゆる安全保障関連法案に私たちは反対し廃案を求める。理由は次の通りである。

1.同法案は日本国憲法に反し、立憲主義を歪めるものである。

2.戦争は生命、生活、生きる手段を奪う。

3.戦闘に貢献できない人々は差別され劣悪な立場に追いやられる。

4.障害者支援が抑制される。

ナチス統治下のドイツでは、「安楽死政策」であるT4作戦により、数多くの障害者がガス室や毒物注射で殺害された。このことに象徴されるように、戦争は、排除の極み、人間序列化の極み、差別の極みを現出させる。さらに戦前の日本における傷痍軍人と一般障害者との間には国家補償において大きな差別が存在し、それが戦後に影を落とした。こうした歴史を踏まえ、私たちは憲法に違反し、戦争につながる安全保障関連法案に反対し、同法案の廃案を求める」。

 

障害者たちは、「価値のない人間」とされ、とりわけ戦時中には、まさに人間以下の扱いを受けてきました。戦争が起きれば、障害者が真っ先に殺されるのは言うまでもないということが、これらの記事を通してわかることではないかと思います。戦争は絶対にしてはいけないのです。それと同時に、現安倍政権において加速する社会保障の切り捨てや、出生前診断が行われ、尊厳死法案が何度も顔をもたげてくる現在です。障害を持つ子を育てたり、障害がありながら生きていこうとしても、「育てるかどうか、生きたいと思うかどうか」を、親や自身の「自己決定」の名のもとに選ばせる時代であるとも言え、戦時下の優生学・優生思想の特徴であった全体主義的な傾向とはまた別の側面があるとも言えます。加えて、秘密保護法などにより強化される監視システムによって、自由な言論活動が制限される恐れもあります。一歩間違えれば、私たちの生が監視され統制される戦前に戻ってしまうかもしれないということです。道徳の教科化や、戦争による犠牲を賛美とまではいかずとも、「尊ぶべきもの」として否定はしない教科書の選定など教育に対する政治的関与もこのところ顕著です。そのような教育現場において、障害を持つ子どもも持たない子どもも共に学び共に育ちあうことなどできるでしょうか。

私たちは、障害者の立場から、障害者を「価値なきもの」とする社会に抵抗し、戦争に反対し、あらゆるいのちと連帯、連携していかなければならない、改めてそう強く思いました。

(野崎泰伸/障問連事務局)

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