【報道】 新型出生前診断から2年、着床前スクリーニング試行へ
【報道】 新型出生前診断から2年、着床前スクリーニング試行へ
野崎泰伸(障問連事務局)
2013年4月に導入されたいわゆる「新型出生前診断」から2年、2015年2月28日、今度は「体外受精させた受精卵の全ての染色体を調べて異常のない受精卵だけを子宮に戻す」(傍点は引用者)という「着床前スクリーニング」について、臨床研究の計画案が日本産科婦人科学会の理事会で承認されました。流産を2回以上、体外受精を3回以上繰り返すなどした女性が対象であり、「対象年齢は定めず、費用は患者が全額負担し、遺伝カウンセリングを受ける必要がある」としています(「着床前スクリーニング“臨床研究計画”承認」,日テレニュース24 2015年3月1日(1))。毎日新聞2015年3月5日東京朝刊では、「記者の目:着床前スクリーニング、試行へ」と題してこの問題を取り上げています。当該記事は、「21番染色体が1本多い「ダウン症候群」、18番染色体が1本多い「18トリソミー」、性染色体が1本少ない「ターナー症候群」などでは、生まれる人がいる現状に対し、今後は本数を理由に受精卵が廃棄される恐れがある。このため「障害者の排除や命の選別につながる」との批判があるが、こうした疑問に学会は十分に答えていない」として、着床前スクリーニングの倫理的問題に大きく紙面を割いています。また、18トリソミーの子を持つ親たちで作る会による写真展の紹介や、市民団体によるダウン症者への理解を深める取り組みの紹介もあり、日産婦の立場に慎重な意見がうかがえます。
『AERA』2015年3月9日号では、「安心求めたのに不安・出生前診断を考える」と題して、新型出生前診断の記事を掲載しています(23ページ)。悩みに悩みぬいた過程は同じで、最後の決断だけが違うと言う医師の意見、新型出生前検査は、羊水検査と比べ、心理的なハードルが低くなったと言う遺伝カウンセラーの意見などが載せられています。ダウン症の子どもを育てるのに、情報が不足していると言う識者の意見もあります。記事は、「医学が進歩すれば、血液から調べられることはもっと増えるだろう。不妊治療と組み合わせて受精卵の段階で遺伝子を調べる技術も進む。生まれる前から将来の病気のリスクがわかる時代は、そこまで来ている。情報が十分に提供され、多様な選択が認められることを望む人は多いだろう。足りない支援があれば、それを充実させ、多様な個性をもつ子どもを安心して産める社会にしたい」と結ばれています。「安心」を求めて検査した結果、「不安」にさいなまれる妊婦の姿が、「逆説」として描かれています。
朝日新聞2015年1月21日朝刊オピニオン欄では、「《耕論》受精卵を調べる」というタイトルで、「体外受精した受精卵のすべての染色体を調べる検査」について、2人の医師が語っています。記事冒頭では、「「不妊治療に朗報」という期待の一方で、「命の選別を加速するのでは」という慎重論も根強い」という両論を併記した形でありながら、倫理面での配慮は必要としながらも、基本的には2人とも着床前のスクリーニングについて、2人の発言内容に温度差はあるものの、少なくとも選択肢のひとつとして許容できるというような内容でした。福田愛作氏は、「女性の年齢が高くなれば卵子の染色体異常率も高くなり、必然的に染色体異常のある受精卵の割合が増えます。流産や死産につながる可能性が高い受精卵を見分けることが検査の最大の目的です」と述べ、高齢出産におけるリスクの回避を強調します。その一方で、「一昨年からは妊婦の血液から胎児の染色体異常を調べる新型出生前診断が始まりました。導入から1年間の経過をみると、陽性と判定されて異常が確定した人のうち、97%が人工妊娠中絶を選んでいます。/受精卵検査は妊娠前に異常を見つけることができ、中絶を選ぶより体や心の負担が少ないといえる。多くは中絶を伴う新型出生前診断は認められ、中絶を必要としない受精卵検査は許されないのは整合性がとれないと思います」と述べ、胎児に異常があれば中絶することを疑いもなく前提にしてしまっているようにも思います。また、障害のある娘(はるのさん、1歳3ヶ月で死亡)を産んだ経験を持つ医師、宇井千穂氏も、「もし私が出生前診断や受精卵検査を受けたら、はるのには会えなかったかもしれません。今、再び不妊治療を受けていますが、もし受精卵検査を受けることができたとしても、受けません。子どもに障害があっても、その存在だけで幸せな気持ちになることを、はるのを通じて知っているからです。/けれど、ほかの人にも同じ選択を強いるつもりはありません。病室の隣のベッドに、一度も見舞いに来ないお母さんがいました。看護師さんに理由を尋ねると、「来ないことになっている」という。/そのお母さんは子どもの人工呼吸器を抜いて、心中を図ろうとしたそうです。それを聞いたとき、私は自分を恥じました。それほど我が子の病気に苦しんでいる母親がいることを、わかっていなかったのです」というように、障害のある子どもを産むことや中絶することが選択できるようになればよい、と述べています。
この記事を受けて、出生前診断や受精卵診断に関して、読者から賛否両論の意見が寄せられたようです。『アピタル』2015年3月9日掲載の小児外科医は、着床前スクリーニングについて、「生命を選別する優生思想につながるという危惧がある」と述べています。欧米での着床前スクリーニングの広がりを、国家的政策ではなく、個人に責任をゆだねる形での優生思想であると批判しているのです(2)。その一方で、同3月12日掲載の看護師は、「出生前診断を語るとき、必ず「優生思想、障害者差別だ」という意見が出ます。しかし、それは論理のすり替えあるいは飛躍です。生命は人間は確かに平等です。しかし、生きるために必要な能力も、社会が与えるものも平等ではないし、平等にすることも現実にはできません。当然、今既に生きている障害者に害が及ぶことも有り得ません」と述べています。さらに、「我が親は「ただ五体満足であれば、他には何も望まない」と私の誕生に際し願ったと聞きます。それは親なら誰もが想うのではないでしょうか。それが受精卵、出生前診断の存在意義であり動機です」と述べてもいるのです(3)。
私は、この看護師の意見を読み、ハッとしました。ここで引用されているような「親なら誰もが想うこと」こそ、かつて青い芝の会の横塚晃一氏が批判したことではないのでしょうか。こうした意識こそ、脳性マヒ者を「本来あってはならない存在」として強烈に社会に植え付けるものです。横塚氏の批判から40年以上たった現在も、障害者はこうした意識と闘い続けなければならないのです。こうした意識を社会が持ち続けることは、「今既に生きている障害者」にとっても「害」なのです。
そもそも、出生前診断を受けることを、個人の選択や行動の自由に矮小化して考えてよいのでしょうか。それが障害者の存在を否定するものならば――私はそのように考えます――、障害者の生存を不安に陥れるものなのではないでしょうか。私はこうした診断技術を、障害者という「異質な他者」との出会いを社会から根本的に奪い去るものとして批判的に見ていく必要があるのではないかと考えています。
(1) URLは、http://www.news24.jp/articles/2015/03/01/07270183.html。
(2) 「医療は命を育み守るもの、選別し捨て去るものではない」 http://apital.asahi.com/article/opinion/2015030600025.html
(3) 「出生前、受精卵診断は両親の自由であるべき」 http://apital.asahi.com/article/opinion/2015031100013.html
4月 1, 2015