編集後記
最近、「遺志を継ぐ」とはどういうことなのか、考えます。この9月に経済学者の宇沢弘文さんが亡くなりました。彼は、新自由主義を理論的に批判し、「社会的共通資本」という考えを提唱し、けっして市場化されてはならないものがあるということを主張しました。自然環境などもそうですし、教育やある種の制度など、社会的インフラも入ってきます。
宇沢氏の根底にあった「志」とは、「すべての人々が幸せに生きられる社会の実現」であったようです。他方で、ヘイトスピーチ等に見られる排除の論理というものは、特定の人々の幸せしか考えていないように私には思われます。当然のことながら、これらの論理と宇沢氏の「志」とは相容れません。「遺志を継ぐ」とは、「その遺志が誰のものか」というところにおいては、生きている私たち自身の意志による選択が問われるのでしょう。
10/1には全障連の楠敏雄さんを偲ぶ会が、11/2には兵庫青い芝の会の澤田隆司さんの自立生活40周年パーティーが開かれました。彼らの「遺志を継ぐ」ということは、彼らの生きた証しや思いを忖度(そんたく)したうえで、生きている私たち自身の意志というものを再確認することではないかと思わずにはいられませんでした。
私たち自身の思いを、ぜひオールラウンド交渉の場で伝えていきましょう。
なお今月も、都合により「加盟団体紹介」は休みです。申し訳ありません。
11月 5, 2014